川連村
かわつらむら
[現在地名]稲川町川連
皆瀬川の中流右岸に位置し、南は三梨村・大館村、北は八面村、東は峰越えに猿半内村(現平鹿郡増田町狙半内)と接し、鍋釣山の西麓にあり、南東に国見岳(五八七・二メートル)を望む。
平城に後三年の役で活躍する清原武衡の家臣梶原美作守の館が築かれたとされるが、委細は明らかでない。貞和五年(一三四九)の陸奥国先達旦那系図注文案(米良文書)に「出羽国山北山本郡いなにハ殿 かわつら殿此人々ハ大弐先達申て候」とみえ、稲庭と川連の二家が存在していたようである。川連氏は代々熊野信仰を深めているが、康暦元年(一三七九)の借銭状(米良文書)に
<資料は省略されています>
とみえ、金銭の貸借関係があった。
小野寺家系図(小野寺氏研究資料)には晴道の四男道俊が一六世紀半ばに川連氏を名乗ったとある。天正一八年(一五九〇)の太閤検地の際の算用書写(色部文書)に
<資料は省略されています>
とあり、川連氏は独立性の強い豪族であったと思われる。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一千八二石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では高は本田一千三六七石八斗一升八合、新田三七二石二斗六升四合、合計一千七四〇石八升二合(当高一千八二四石七斗八合)。
川連村
かわつれむら
[現在地名]大平町川連
土与村の北西、南流する永野川(二本杉川)東岸に立地し、北は片柳村(現栃木市)と接する。村内を例幣使街道が通る。明徳二年(一三九一)七月一二日の源寿檀那職売券(米良文書)に「合代二貫七百文者、そのへ・かわつら共」とあり、「をくのしやうけ」に売渡している。永正七年(一五一〇)六月二〇日の重済檀那職売券(同文書)の包紙上書にも「かわつら」とみえる。片柳にかけて応仁年間(一四六七―六九)川連仲利が築城したという川連城があり、戦国期には皆川氏の拠点の一つであった。
川連村
かわづれむら
[現在地名]下館市川連
小貝川左岸に位置し、北は上川中子村。戦国期に水谷氏の支配地となり、江戸初期に下館藩領となる。元和九年(一六二三)常陸国真壁郡内川連村下館領内検地帳(小島家文書)に「田畠屋敷都合拾五町壱反八畝拾六歩半、高合百六拾三石八斗六升弐合、耕作者惣数四拾九人・内川連村拾八」とあり、同年の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高一七九・二四二石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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