平安後期の武将。出羽山北(でわせんぽく)の俘囚主(ふしゅうしゅ)清原光頼(みつより)の弟武則(たけのり)の子。武貞(たけさだ)の弟。「清原氏系図」の一本に「将軍三郎、住奥州岩城(いわき)郡」とある。岩(磐)城は南にすぎるとして「岩手郡」とする説もあるが、岩城は勿来関(なこそのせき)が置かれた要地なので、鎮守府将軍になった武則が三男であろう彼をそこに配しておいたものと考えられる。1083年(永保3)後(ご)三年の役が起こり、甥(おい)の家衡(いえひら)が沼柵(ぬまのき)で陸奥守(むつのかみ)源義家(よしいえ)を撃退すると、名将を破るは家門の名誉と甥に与同し、拠点を金沢柵(かねさわのき)に移させた。義家・清衡(きよひら)軍の包囲と対抗、善戦したが兵粮(ひょうろう)攻めにあい、弱気になって敵の副将源義光(よしみつ)を頼り降伏を申し出たが、義家は認めず、寛治(かんじ)元年11月14日金沢柵落城により斬首(ざんしゅ)となる。
[新野直吉]
『新野直吉著『古代東北の覇者』(中公新書)』▽『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』
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(朧谷寿)
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?~1087.11.14
平安後期の武将。武則の子。将軍三郎と称す。後三年の役では,甥の家衡を支援して清原清衡・源義家と戦った。1086年(応徳3)沼柵(現,秋田県横手市雄物川町)での戦に勝利を収めた家衡に,金沢柵(現,秋田県横手市)に移ることを進言。翌年同柵で2人は抗戦したが,義家軍の兵粮攻めに苦戦。投降を申し入れたがうけいれられず,捕らえられて義家に助命を願ったが殺された。
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…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。しかしその一族内部には複雑な対立が存在した。乱の直接の契機は清原武貞の3人の子の対立にある。この兄弟は,嫡子の真衡が先妻の子,家衡が後妻安倍氏(安倍頼時の娘,藤原経清の後家)との間の子,清衡がその後妻の連れ子という複雑な関係にあった。…
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