デジタル大辞泉
「岡田寒泉」の意味・読み・例文・類語
おかだ‐かんせん〔をかだ‐〕【岡田寒泉】
[1740~1816]江戸後期の儒学者。江戸の人。名は恕。通称、清助。松平定信に登用され、朱子学振興に努力した。著「幼学指要」。
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おかだ‐かんせん【岡田寒泉】
- 江戸中期の朱子学者。寛政三博士の一人。名は恕(はかる)。字は仁卿など。通称清助。村士玉水に闇斎学を学ぶ。幕府の儒官として林大学頭信敬(のぶたか)をたすけて「寛政異学の禁」を発令。寛政六年(一七九四)、代官職に転じて民政に功績があった。著「幼学指要」など。元文五~文化一三年(一七四〇‐一八一六)
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岡田寒泉
おかだかんせん
(1740―1816)
江戸後期の儒学者。幕府代官。名は善里(よしさと)。のち恕(はかる)。字(あざな)は中卿(ちゅうけい)、子強(しきょう)。通称清助、号は泰斎(たいさい)、寒泉。1200石の旗本岡田善冨(よしとみ)の次男として江戸に生まれた。武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学んだ。また、淡斎の子村主玉水(ぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学んだ。1789(寛政1)幕府に儒者として登用され、翌年、柴野栗山(りつざん)とともに聖堂取締を命ぜられ、松平定信政権下での学制改革(寛政異学の禁)に尽力した。栗山・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」に数えられる。1794年代官に転じ、常陸(ひたち)国内182か村を管轄しながら昌平黌(しょうへいこう)の講師も務めた。荒廃した農村の立て直し、人口回復に尽力した名代官とされ、各地に「岡田大明神」の石祠などが建立された。著書に『幼学指要』(『日本文庫10』所収)など。
[梅沢秀夫]
『重田定一著『岡田寒泉伝』(1916・有成館)』▽『重田定一著『岡田寒泉 善政を施した名代官』(1980・筑波書林)』
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岡田寒泉
おかだかんせん
1740.11.4~1816.8.9
江戸後期の朱子学派の儒者。旗本岡田善富の子。名は恕(はかる),字は子強,通称清助。崎門(きもん)学を村士(むらじ)玉水に学ぶ。1789年(寛政元)松平定信に抜擢されて幕府儒官となり,柴野栗山(りつざん)とともに寛政異学の禁政策を推進した。これに尾藤二洲(じしゅう)を加えて寛政の三博士(のち寒泉に代えて古賀精里)とよぶ。94年代官職に転じ,常陸国内の民政に治績をあげ,領民から功徳碑を建てられるなど長く敬慕された。著書「幼学指要」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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岡田寒泉 おかだ-かんせん
1740-1816 江戸時代中期-後期の儒者。
元文5年11月4日生まれ。村士(すぐり)玉水にまなぶ。寛政元年幕府の儒官に登用され,柴野栗山とともに学制の改革にあたった。6年常陸(ひたち)の代官となる。栗山,尾藤二洲(じしゅう)とともに寛政の三博士とよばれた。文化13年8月9日死去。77歳。江戸出身。名は善里,恕(はかる)。字(あざな)は子強。通称は又次郎,清助。別号に泰斎。著作に「幼学指要」など。
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岡田寒泉
おかだかんせん
[生]元文5(1740).11.4. 江戸
[没]文化13(1816).8.9.
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。江戸の人。松平定信により儒官に登用され,のち常陸国の代官となる。寛政の三博士の一人。著書『幼学指要』『祭礼略義』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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岡田寒泉
おかだかんせん
1740〜1816
江戸後期の朱子学者
通称清助。寛政三博士の一人。松平定信に登用され,寛政の改革に際し,寛政異学の禁を進言した。また代官として農村の治政に功績をあげた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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岡田寒泉 (おかだかんせん)
生年月日:1740年11月4日
江戸時代中期;後期の儒学者;幕府代官
1816年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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