工藤行幹(読み)くどう・ゆきもと

朝日日本歴史人物事典 「工藤行幹」の解説

工藤行幹

没年:明治37.4.21(1904)
生年天保12.12.28(1842.2.8)
明治時代政治家。幼名は峰次郎。津軽(弘前)藩の儒者櫛引錯斎の次男。妻は美津子。民部省,工部省,三重県に任官中,新潟大河津分水騒動や伊勢暴動に遭遇する。郡長歴任後,大同団結運動に参加して,第1回(1890)から連続9期衆院議員に当選。自由党,同志倶楽部,立憲革新党,進歩党,憲政党,憲政本党,憲政党に所属し,国民同盟会,対露同志会などの対外硬運動にも関係した。お国なまりから「珍急翁」のニックネームがついたが,第12議会で全院委員長に選ばれるほど東北地方屈指の有力政治家であった。<参考文献>伝記刊行会編『工藤行幹翁伝記』

(河西英通)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「工藤行幹」の解説

工藤行幹 くどう-ゆきもと

1842*-1904 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)12年12月28日生まれ。もと陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。維新後官職についたのち,大同団結運動に参加。明治22年東奥日報社社長。23年の第1回衆議院選挙以来,連続当選9回。自由党,進歩党,憲政本党などと所属をかえながら,対外強硬論者としてならした。明治37年4月21日死去。64歳。

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