1886年(明治19)から89年にかけて展開された民権諸派の統一的反政府運動。90年の国会開設を間近にして民権運動の再興が急務となった86年10月、旧自由党・立憲改進党の有志が全国有志大懇親会を開き、小異を捨てて大同につくことを確認しあったのが端緒である。翌87年井上馨(かおる)外相の条約改正案の屈辱的内容が暴露されると、両派は提携して全国各地で条約改正中止建白運動を展開した。それはさらに地租軽減、言論・集会の自由をあわせた三大事件建白運動に発展し、建白書提出委員が続々上京、往年の民権運動の全盛期を再現するに至った。こうした下で、同年10月後藤象二郎(しょうじろう)は丁亥倶楽部(ていがいくらぶ)を設立し、全国同志の団結を呼びかけた。
しかし政府は同年12月保安条例を発布して運動を弾圧し、翌88年2月には改進党の実質的党首の大隈重信(おおくましげのぶ)を外相に就任させて運動の分断を策した。同年後藤は大同団結を唱えて地方遊説を行い、雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への組織化を図った。しかし改進党系の多くはこの動きに加わらず独自の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転化。しかも89年3月後藤自身が逓(てい)相に就任し運動から退くと、直前の恩赦で多くの有力民権家が出獄し指導者に迎えられたこともあって、運動は分裂し、大同倶楽部と大同協和会が発足した。ここに大同団結運動は完全に終焉(しゅうえん)したが、初期議会における民党連合の基礎をつくった意義は大きい。
[阿部恒久]
『指原安三著『明治政史』(1892・冨山房/『明治文化全集 2、三』所収・1928、29・日本評論社)』
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帝国議会開設を前に反政府諸派の結集による議会の多数党形成をめざした運動。1886年(明治19)10月の自由民権派の全国有志大懇親会で,星亨(とおる)・末広重恭(しげやす)(鉄腸)らが大同団結をよびかけたことに始まる。後藤象二郎が首領に擁立され,旧自由党系と立憲改進党系の提携が策されたが,立憲改進党系は消極的だった。87年三大事件建白運動と結びついたが,同年12月,保安条例により多数の有志が東京外に追放された。88年には後藤の東北・北陸遊説などにより運動は全国的に拡大した。89年憲法発布の大赦で出獄した民権家が加わったが,後藤の入閣で運動は混乱し,同年5月,政社派(大同倶楽部)と非政社派(大同協和会のち自由党)に分裂。90年愛国公党の結成で三派鼎立(ていりつ)となったが,三派合同の動きも進み,同年7月の第1回衆議院議員総選挙をへて,九州同志会を加えた四派合同が実現し,9月立憲自由党を結成。11月の帝国議会開設を前に衆議院の第一党となった。
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…広くは分立する諸党派が小異を捨てて,共通する大きな目的のために団結することをいい,このような動きは歴史上たびたびあらわれたが,狭義には1891年末に開かれる第1議会に向けて,在野諸党派が連合もしくは合同しようとした動き,すなわち大同団結運動を指す。民権運動は,1884年には自由党の解党で停滞していたが,86年10月星亨,中江兆民らが発起人となり,旧自由党・改進党有志の全国有志大懇親会が開かれたのがきっかけとなり,再び活発になる。…
※「大同団結運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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