朝日日本歴史人物事典 「巨勢邑治」の解説
巨勢邑治
生年:生年不詳
8世紀初の公卿。父は孝徳,斉明朝の左大臣徳太(徳太古)の孫で,黒麻呂の子。氏は許勢,名は祖父と書くこともある。持統7(693)年,官物の出納管理に当たる監物の地位にあったが,内蔵寮の官人の不当利得に対する監督不行き届きのかどにより,位を2階降され解任された。大宝1(701)年1月には遣唐使の大位(判官)に任命され翌年唐に渡ったが,時に位は務大肆で三河守であった。慶雲4(707)年3月,副使に昇格して帰国,位も従五位下になった(遣唐使任命後大宝令が施行,位階制が変わる)。のち昇進を重ね,養老2(718)年3月中納言,神亀1(724)年2月正三位になり,中納言在職のまま死去。いちどは降等解任処分を受けたが,のち遣唐使に任命され,帰国後は播磨守や右大弁を歴任したのちに中納言に任じられるなど,官僚としての有能さがうかがわれる。
(清田善樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報