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粟田真人 あわたのまひと

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

粟田真人
あわたのまひと

[生]?
[没]養老3(719).2.5.
奈良時代の官人。文武4 (700) 年,大宝律令の制定に参加。また,遣唐使として大宝2 (702) 年渡唐し,慶雲1 (704) 年帰朝。

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デジタル大辞泉の解説

あわた‐の‐まひと〔あはた‐〕【粟田真人】

[?~719]奈良前期の貴族。大宝律令の編纂(へんさん)に参加。大宝2年(702)遣唐使として渡唐。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

粟田真人 あわたの-まひと

?-719 飛鳥(あすか)-奈良時代の公卿(くぎょう)。
天武天皇10年(681)小錦下(しょうきんげ)の位をさずかり,持統天皇のとき筑紫大宰(つくしのだざい)の任にあった。文武天皇4年大宝律令の撰定に参加。大宝2年遣唐使として唐(中国)にわたり,2年後帰国。この功により中納言,のち大宰帥(そち)。正三位。唐では則天武后からその態度,知識について賞賛をうけたという。養老3年2月5日死去。

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朝日日本歴史人物事典の解説

粟田真人

没年:養老3.2.5(719.2.28)
生年:生年不詳
奈良時代の公卿。粟田氏は春日,大宅,小野,柿本氏らとともに,古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。天武10(681)年小錦下の位を受け,同13年朝臣の姓を与えられた。持統3(689)年には筑紫大宰としてみえ,文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。大宝1(701)年直大弐の位で,民部尚書の職にあり遣唐執節使に任命されたが,この年は天候に恵まれず翌2年6月唐へ出発した。同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。翌3年,唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見,経史をよく読み,容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。慶雲1(704)年に帰国,その功績によって大和国(奈良県)に水田20町,穀1000石を与えられた。同2年中納言に任命され,政局に参加。和銅1(708)年に大宰帥に再任。遣唐使としての功績は,白村江の戦(663)以来初めての遣唐使として,直接唐との正規の外交を樹立し,外交政治上も重要な任務を果たしたことである。天武14年には位を父(春日粟田臣百済か)に譲ろうとするなど性質は温雅で経史にも詳しかったから,律令の編纂にも参加させられ,ひさびさの遣唐使の大任もまかされたのであろう。

(鬼頭清明)

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世界大百科事典 第2版の解説

あわたのまひと【粟田真人】

?‐719(養老3)
天武朝から奈良初期の貴族。粟田氏は右京・山城国に本拠をもつ大族。持統朝に筑前大宰に任官,大宝律令の撰定にあずかり,8世紀初めに民部尚書(長官)に就き,朝政に参与するなど律令制確立期の政治に少なからぬ役割を果たした。702‐704年の第7次遣唐執節使として渡唐し,則天武后時代の唐(大周)を体験,文物の摂取に努めた。時の唐人は,真人の進退儀容が大いにいさぎよいため,日本の礼儀が厚く行われていると評したという。

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大辞林 第三版の解説

あわたのまひと【粟田真人】

?~719) 奈良前期の学者・官人。大宝律令の編纂へんさんに参加。702年、遣唐使長官として渡唐。帰国後、中納言・大宰帥を兼ねる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

粟田真人
あわたのまひと
(?―719)

奈良時代前期の官吏。大宝律令(りつりょう)の撰修(せんしゅう)に参画したことと遣唐使とで有名。689年(持統天皇3)筑紫大宰(つくしのだざい)であったと『日本書紀』にみえる。700年(文武天皇4)大宝律令撰定の功を賞せられ、翌年遣唐使および参議に任ぜられ、702年入唐。唐帝則天武后(そくてんぶこう)は彼を麟徳(りんとく)殿に招宴し司膳卿(しぜんけい)を授けた。『旧唐書(くとうじょ)』に「真人好んで経史を読み、文を属(つく)るを解し、容止温雅なり」と褒めている。704年(慶雲1)帰朝後の報告によると、唐の楚州(そしゅう)に着き唐人と問答したとき、彼が「海東に大倭国(だいわこく)あり君子国という。人民豊楽、礼儀敦(あつく)おこなわると、今使人を看(み)るに儀容大浄(はなはだきよ)し、豈信(あにまこと)ならずや」といったという。真人は官は中納言(ちゅうなごん)を経て大宰帥(だざいのそち)に進み、位は正三位(さんみ)にまで上った。[横田健一]

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