市原町(読み)いちはらちよう

日本歴史地名大系 「市原町」の解説

市原町
いちはらちよう

[現在地名]刈谷つかさ

刈谷城の南、衣浦きぬうら湾に面する。「三河国二葉松」に「刈谷 湊」とあるのは市原いちはら湊のことで、市原町は市原湊とともに栄えた。正徳二年(一七一二)の家数一一、うち網船所有二、小海老取舟所有がこのほかに一。衣浦湾に沿うさかい川筋沖合白魚がとれた。「辰之歳日記」に「市原町猟師共御献上之白魚、前々より取来申候、網調金先々従御代金弐両御拝借仕候」とあるように、初めは市原町の猟師の仕事であったが、享保年間(一七一六―三六)から高津波たかつなみ村が加わり、刈谷町・高津波村の漁師が藩から網調金を拝借して水揚げを行っている。しかしさかい川の土砂堆積と、逢妻あいづま川河口の新田開発に伴い、しだいに不漁となり、漁場は南の吉浜よしはま(現高浜市)下の海道に移動し、文政九年(一八二六)以後、しばしば尾張領石浜いしはま(現知多郡東浦町)の漁師と争いをひき起こすに至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報