刈谷市(読み)カリヤシ

デジタル大辞泉 「刈谷市」の意味・読み・例文・類語

かりや‐し【刈谷市】

刈谷

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日本歴史地名大系 「刈谷市」の解説

刈谷市
かりやし

面積:五〇・七四平方キロ

西三河平野の西部、衣浦きぬうら湾頭に位置する。北部地域は標高四〇メートル内外の丘陵にあり、南部地域は標高一〇メートル内外の台地、西の衣浦湾は干拓されて水田地帯をなす。尾張・三河二国の境を流れるさかい川が、逢妻あいづま川と並行して西を流れる。市の北部を、古代、京と東国を結んだ東海道が通り、近世には新しく整備された東海道がこれと並行してその南を通っていた。旧東海道は鎌倉街道とよばれ、今はほとんどその姿を消したが、のちの東海道は一部国道と重なって残る。市の中心部は、刈谷城の城下町として発展した。

地名の起源については明らかでないが、初めかめ村とよんだこの地に、元慶元年(八七七)頃、一族を連れて出雲より移り住んだ狩谷出雲守の名に由来するという説がある。応永一六年(一四〇九)の「熊野道者日記」(大乗院記録)に「熊野参詣良尊法印引導之檀那之在所之事」として「一所借屋郷」とあるのが初見である。また狩谷・苅谷・雁屋・刈屋と記したのも見受ける。

〔原始・古代〕

刈谷市域は、縄文時代の早期から晩期までの遺跡に恵まれた地域である。逢妻川水域や猿渡さわたり川水域に臨む台地の縁辺に貝塚が分布しており、そのうちさき貝塚は、縄文早期後半のものとして市域では最古の遺跡である。縄文時代の遺跡は一七ヵ所あり、やまかみ遺跡・天子神社あまこじんじや貝塚・本刈谷もとかりや貝塚は刈谷西部の縄文遺跡である。弥生期の遺跡は七ヵ所、そして古墳時代の遺跡は二三ヵ所に及び、同一の遺跡から時代の異なった土器を出土する。古墳の大半は開発の波にもまれて壊滅した。

律令制下では三河国碧海あおみ郡に属し、「和名抄」刊本に記す一五郷のうち智立ちりゆう郷・大市おおいち郷がこの地に及んでいたと推測される。当市最古の創建と伝える野田のだ八幡宮は、もともと太郎子尊・八波多神ならびに物部の祖神を祀る旧跡であるが、白鳳五年大市郷今留丘いまるがおかに創立と伝える(野田八幡宮棟札)。八幡宮の東に高さ二尺ばかりの円形の塚が安政(一八五四―六〇)頃まで残っていたというから(神社調査)、この塚は、この地で物部氏の祖神を祀った一豪族の墓と思われる。また半城土はじようど天満宮は、寛徳元年(一〇四四)の棟札を所蔵する。市の北部、丘陵や、泉田いずみだの台地に存在する古窯群から、奈良朝様式の須恵器や、平安朝様式の灰釉陶器などが発見されている。これらの製品は朝廷に納められるほか、付近の部落との間でも売買されたものと推測される。

古代の東海道、のちの鎌倉街道は刈谷市の北部を横断している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「刈谷市」の意味・わかりやすい解説

刈谷〔市〕
かりや

愛知県中部,岡崎平野西部にある市。1889年刈谷村が町制。1906年元刈屋村,逢妻村,小山村,重原村合体。1950年市制。1955年富士松村,依佐美村の一部を編入天文2(1533)年水野忠政により亀城(刈谷城)が築かれ,以来城下町として発展。江戸時代には東海道,師崎街道,衣浦の市原港への水陸交通の結節点であった。1888年東海道本線,1914年三河鉄道が開通。1923年名古屋市から自動紡織機の工場が移設され,次いで 1926年豊田自動織機製作所(→豊田自動織機)の設立により機械工業都市としての基礎が定まった。その後 JR刈谷駅を中心に紡績製鋼,自動車部品,機械などの関連工場が集中し,豊田市とともに自動車工業の核心地域となり,工業出荷額は豊田市,名古屋市に次ぐ。1970年愛知教育大学が名古屋分校・岡崎分校を市内井ヶ谷町に移転統合。小堤西池カキツバタ群落は国の天然記念物に指定されている。面積 50.39km2。人口 15万3834(2020)。

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