刈谷城下(読み)かりやじようか

日本歴史地名大系 「刈谷城下」の解説

刈谷城下
かりやじようか

[現在地名]刈谷市しろ町・つかさ町・銀座ぎんざ寺横てらよこ町・広小路ひろこうじ新栄しんさかえ町・寿ことぶき町・豊田とよだ町・神田かんだ町・さくら町・昭和しようわ町・朝日あさひ

衣浦きぬうら湾が北に入込む湾頭の刈谷台地の西端に築かれた刈谷城を中心とする城下町。現刈谷市の西南端に位置する。近世初頭、刈谷の地は三河の国人水野氏の支配するところであり、忠政に至って、天文二年(一五三三)この地に築城した。三代あとの勝成は、刈谷藩初代藩主に位置すべき人物で、三万石を領有したが、元和元年(一六一五)大和郡山こおりやま(現奈良県)に転封してから、以後弟の忠清に続いて松平(深溝)・松平(久松)・稲垣・阿部・本多・三浦の諸氏を経て、土井氏に至って藩主家は定着し、幕末まで土井氏が支配した。領域は寛政四年(一七九二)から二万三千石のうち一万石の碧海へきかい郡城付領と一万三千石の陸奥国内の飛地(現福島県)とに二分された。往古は重原しげはら庄内の一農漁村であったが、水野氏の築城によって形勢は一変した。

〔城下の形成〕

稲垣氏時代(元禄)の刈谷城下町図(中根時雄氏蔵)をみると、西に衣浦湾を控えた小高い本丸の東に二の丸・三の丸があり、この地域をとりまく北・東・南は平坦な台地で、知立ちりゆうに至る道に沿って町屋があり、それを囲む形に侍屋敷が配置されている。侍屋敷は、石高の多い上士の分が城の近くにあり、軽輩の分ほど葭池よしいけ十念寺裏じゆうねんじうらくま村など町の周辺にあった。町並が整ってきたのは、慶安(一六四八―五二)の頃からではないかと思われる。町口門から曲がって池鯉鮒ちりゆう(現知立市)に至る刈谷街道に沿って、ほん町・さかな町・した町・寺横町ができ、下町から熊村・高津波たかつなみ村・小山おやま村を経て尾張に通じる街道がよく使われた。刈谷町より池鯉鮒宿まで道程一里半一二町。本町の東端にある札の辻から重原境まで二三町二間、元刈谷もとかりや村境まで五町三間、知多郡境まで一五町二間、熊村境まで三町四間半。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報