布市村(読み)ぬのいちむら

日本歴史地名大系 「布市村」の解説

布市村
ぬのいちむら

[現在地名]富山市布市

小杉こすぎ村の南東に位置し、飛騨街道(布市道)が通る。寛文年間(一六六一―七三)のものといわれる越中国絵図(県立図書館蔵)によれば、小杉石田いしだ金屋かなやの各村を含み、親村の位置にあったものと思われる。永和二年(一三七六)五月一四日の斯波義将書状案(東寺百合文書)によると、幕府は蔵人所灯炉供御人である「越中国野市金屋」の鋳物師に対して二宮入道が課した公事を停止するよう斯波義種に命じているが、野市は当地のこととされる(越中志徴)興国年間(一三四〇―四六)興国こうこく寺が建立されるとともに、神通川東部の要衝として栄えた。室町後期には当地の称名しようみよう院・竜高りゆうこう寺・得法とくほう寺・満浄まんじよう寺・浄誓じようせい寺・蓮台れんだい寺・本立ほんりゆう寺が布市七ヵ寺と称されたように、多くの寺が瓦を並べていたという。


布市村
ぬのいちむら

[現在地名]東大阪市布市町一―三丁目・日下くさか町四丁目・もと町一―二丁目など

日下村枝郷で、同村西部にある。西の村境恩智おんぢ川が北流していたが、宝永二年(一七〇五)東岸に河内屋南かわちやみなみ新田が開発された。元文二年(一七三七)日下村明細帳(天理図書館蔵)に「当村出在家布市」、宝暦八年(一七五八)日下村差出明細帳(同館蔵)には日下村高七一八石余のうち二一一石余が「枝郷布一分」とある。元文二年の家数七三(高持三五・無高三八)・寺一・人数三六七、牛一三・馬一。宝暦八年の家数七九(高持二八・無高五一)・人数三七六(各年の明細帳)


布市村
ぬのいちむら

[現在地名]勝山市荒土あらど町布市

滝波たきなみ川右岸の低位扇状地に位置し、北は清水島しみずしま村、東は竹林たけばやし村。村名は慶長三年(一五九八)六月二八日付越前北袋布市村御検地帳の写(島田家文書)みえ、田畑屋敷計三一町八反三畝二〇歩、分米四九九石七斗二升であった。正保郷帳によれば田方四五一石余・畠方四八石余で、元禄四年(一六九一)の「三代官より附渡郷村高帳」写(藤田文書)には、ほかに新田三二石が記される。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年以降勝山藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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