日下村(読み)くさかむら

日本歴史地名大系 「日下村」の解説

日下村
くさかむら

[現在地名]東大阪市日下町一―八丁目・布市ぬのいち町四丁目・池之端いけのはた町・東石切ひがしいしきり町四丁目

生駒山地西麓の扇状地上にある。北は善根寺ぜんこんじ村で、村の西部を南北に東高野街道が通り、枝郷に布市・池之端がある。村域内を西流する日下川北岸に日下貝塚がある。縄文時代前期にはすぐ西に河内湾がひろがり、古墳時代前期には堆積により河内湖の沿岸になっていた。養老四年(七二〇)九月一五日、行基は石凝いしごり(寺)を河内国河内郡「早村」に建立した(行基年譜)。石凝院は行基建立と伝える四九院の一つで、「早村」は日下村のことと考えられる。宝亀四年(七七三)一一月二〇日、四九院のうち施入田の及んでいなかった六院に施入があり、同院も田三町を与えられ、「風雨順時、年穀豊稔」を祈願した(「続日本紀」同日条)。永保元年(一〇八一)の河内国石凝寺々地等免判抄(教王護国寺文書)によると、田畑は大戸おおべ碓井うすい里など四町六反三〇〇歩に及び、ほかに若江郡南条清水里・北条錦部田里などに五町九反余の寺地があり、国衙の賦課を免ぜられていたと思われる。昭和三六年(一九六一)日下墓地の南に礎石があるとの伝承に基づいて調査が行われ、花崗岩の自然石の礎石・複弁蓮華文を内文とする軒丸瓦(若江寺跡出土の瓦と同笵)・奈良時代の唐草文の軒平瓦などが出土した(枚岡市史)

日下村
くさかむら

[現在地名]米子市日下

河岡かわおか村の東、佐陀さだ川北岸の大山原野に続く微高地に位置する。「和名抄」記載の会見あいみ郡日下郷の遺称地とされる。久坂くさか村とも書かれ、中世には中間なかま(二宮庄)のうちであったらしい(天文一一年一〇月九日「山名豊興書下」伯耆志など)。永享一一年(一四三九)九月二八日の山名教之書下(瑞仙寺文書)に「伯耆国久坂村」とみえ、これ以前に村内に円福えんぷく寺および瑞仙ずいせん(のち瑞仙寺)が建てられていた。文明一七年(一四八五)には村内の地が慈光院瑞賢(山名熙之)の菩提を弔うために山名政之から瑞仙寺に寄進された(同年九月一七日「山名政之寄進状」同文書)。ただし別紙の下地目録は伝わっておらず、寄進された場所などについては不詳。前掲山名豊興書下では村内の瑞仙寺領は七〇石とあり、諸公事・段銭などを免除された一円支配の地となっていた。この寺領は尼子氏・吉川氏支配下でも維持され、中村氏米子入部まで続いたとみられる。天正四年(一五七六)一一月三日の坪付(瑞仙寺文書)によれば、久坂内の瑞仙寺領は田二町七反大(うち五反小は出分)・畠三〇〇歩で、あなや・こたいかき・小沢こざわなどにあり、分銭二七貫九〇〇目。

日下村
くさかむら

[現在地名]日高村本郷ほんごう下分しもぶん沖名おきな

仁淀によど川支流日下川の中流・下流域を占める東西に長い大村で、「土佐州郡志」には「久坂村」とあり、「東限波川村榎休場、西限岩目地・九頭・谷地三村、南限甲原・北地・高岡・大内四村、北限能津切山、東西一里三拾七町、南北三十四町(中略)二淀川在村東」と記し、村内小村として江尻・中村・雲山・奥谷・西之土居・小屋之谷・父原・妹背梅之坂・柏井谷・大和田・柚峯・加古・柚之谷・長崎・宮谷・長子庵馬越・込山猿田・寺谷渋川・石田・清田・□也・福良・利谷長山田・小村・大河内をあげる。このうち枝郷として郷帳類に記載されるのは江尻えじり村で、このほか江戸時代前期には西に接する入沢いりさわ九頭くず両村も枝郷となっている(寛文七年郷帳「南路志翼」所収)

中世の久佐賀くさか別符の地を継承した日下村は、元禄地払帳では「日下村・江尻村」として総地高二千二九四石余、うち本田高一千八六八石余・新田高四二六石余。

日下村
ひげむら

[現在地名]三次市日下町

ごうの川とその支流神之瀬かんのせ川の合流点に発達した沖積平野に立地。江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)から享保五年(一七二〇)までは三次藩領。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に「ひげ村」とあり、高二〇八・七六三石を記す。三次藩成立直前には浅野家の臣寺西将監の給地となっており、年貢未進により牢舎入りしている百姓の処理をめぐって、本藩と三次藩との間に交渉が重ねられた記録が残る(鳳源君御伝記「三次分家済美録」所収)

日下村
くさかむら

[現在地名]村上市日下

門前もんぜん村近くの山間から流れ出て北西へ流れる小谷おだに川左岸に位置する。南は上相川かみあいかわ村、西は下相川村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「日下村」とみえ、破損のため「八夕」のみ読みとれる。村の位置は北方の丘陵を越えた下山田しもやまだ村西方に描かれる。正保国絵図では高三五〇石余。天保九年(一八三八)の日下組村々御案内帳(小田彦左衛門氏蔵)によれば高三六〇石九斗余・田畑三八町四反余、家数四〇(うち百姓二五・水呑一五)・寺一・人数一九二・出家二・針医三、馬三二。

日下村
くさかむら

[現在地名]出雲市日下町

鼻高はなたか山の南にあり、東は楯縫たてぬい西林木にしはやしぎ村、西は矢尾やび村、南は里方さとがた村。延宝七年(一六七九)山方やまがた村が日下村・矢尾村に分れたという。「雲陽大数録」では高六七〇石。村名はこの地に古くから鎮座する久佐加くさか神社による。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西八町・南北六町三〇間、田二四町八反・畑一一町三反、家数五〇・人数二四二、牛九・馬一〇、猟鉄砲一、楮一千七五五株と記す。「郡村誌」では東西八町三六間・南北二一町三三間、田四一町八反・畑五町七反・山林五八町、戸数六三・人数三一二、牛一・馬八、民業は農五八・工四とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報