布留郷
ふるごう
布留郷は布留川を挟んで北郷と南郷に分れ、時代により村数の増減はあったが、ほぼ旧丹波市町・二階堂村の大部分と旧朝和村の一部、五〇余村にわたっていた。
政治的には興福寺の支配下にあったが、石上神宮を紐帯とした結びつきは強固で、しばしば興福寺と対立した(大乗院雑事記)。また郷の形成は信仰圏としてのつながりのほか、布留川の用水が大きな要因であった。
布留郷
ふるごう
「和名抄」所載の郷。郷順は鳥取郷の次、佐味郷の前で、訓は記されない。郷名の「布留」は、地名では「新撰姓氏録」(大和国皇別、布留宿禰条)に山辺郡石上郷布瑠村がみえるが、郷名では他に例がない。「留」字は越前国坂井郡福留郷の訓を「布久呂」とし、越中国礪波郡の「伊加留岐」を「伊加流伎」とも表記するので、布留はフロまたはフルの読みが可能であるが、ここでは後者の読みを採用する。ところで、当郷の表記について「三州志」は「布留ハ若シクハ式ノ布勢カ、然ラハ今ノ布勢川辺ナラン」とし、同様に「三州地理志稿」も「留」を「勢」の転訛とみ、近世の布施保(現魚津市・黒部市)、大布施保(現黒部市)の域にあてる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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