日本大百科全書(ニッポニカ) 「常田角左衛門」の意味・わかりやすい解説 常田角左衛門つねたかくざえもん(1693―1711) 江戸中期の義民。周防(すおう)国吉敷(よしき)郡長野村(山口市)の人。1711年(正徳1)、同志の松原清介(せいすけ)とともに、給主の圧政を本藩に直訴したため死罪となる。世に長野村の二義少年という。長野村は、長州藩家老益田(ますだ)氏の給地で、陪臣作間(さくま)氏は村内の荒地開墾を村民に課したが、そこは強水害地で開墾不能の土地であったため農民の反発を招いた。代官所への訴えも退けられ、2人は萩(はぎ)に至り宗藩毛利氏に直訴に及んだ。その結果、作間氏は追放、給主は閉門となったが、角左衛門(19歳)、清介(21歳)は処刑された。[広田暢久] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常田角左衛門」の解説 常田角左衛門 つねた-かくざえもん 1693-1712* 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。元禄(げんろく)6年生まれ。宝永7年周防(すおう)(山口県)吉敷郡(よしきぐん)長野村での領主益田就高に対する貢租減免直訴の一揆の際,松原清介と発起人となり,萩(はぎ)藩代官に直訴。就高は謹慎,長野村は萩藩直轄領となるが,角左衛門は正徳(しょうとく)元年11月26日処刑された。19歳。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例