日本大百科全書(ニッポニカ) 「常盤とよ子」の意味・わかりやすい解説
常盤とよ子
ときわとよこ
(1930― )
写真家。横浜市生まれ。本名刀(かたな)洋子。1950年代から、女性では当時まだ珍しかったフリーランスのフォト・ジャーナリストとして、おもに同時代を生きる女性たちの姿、女性を取り巻く社会的現実を撮り続けた。1951年(昭和26)に東京家政学院を卒業後、横浜の街頭宣伝放送を行う通信社にアナウンサーとして勤務。兄の友人で写真雑誌などに活発に作品を発表していたアマチュア写真家奥村泰宏(1914―95)の感化で、写真に興味を抱くようになり、女性だけのアマチュア写真団体「白百合カメラクラブ」へ入会。土門拳らによって第二次世界大戦後に推進されていたリアリズム写真運動の影響を受けつつ、社会の底辺の労働者や、横浜の駐留アメリカ兵などを撮影しはじめる。54年「横浜アマチュア写真連盟」へ入会。同じ女性としての視点から、デパートの女店員、ファッション・モデル、女子プロレスラー、海女(あま)、チンドン屋、美容師など、さまざまな職業に生きる女性たちを撮影した一連の作品により、56年初個展「働く女性」(小西六ギャラリー、東京)を開催。同展の出品作のなかで、とくに横浜真金(まがね)町遊郭の娼婦たちにレンズを向けた「赤線地帯の女」と題する写真群がジャーナリズムの注目を浴びる。娼婦たちの生きる場所、およびそこに流れる日常のありようを、小型カメラによってその内側へ入りこんでスナップした「赤線地帯の女」シリーズは、その後も撮影が続けられ、写真と文からなる著書『危険な毒花』(1957)にまとめられた。
56年日本写真家協会会員となる。57年写真評論家福島辰夫(1928― )の企画により新鋭写真家の作品を集めた「10人の眼」展(小西六ギャラリー)に石元泰博(やすひろ)、細江英公、東松照明、奈良原一高、川田喜久治(きくじ)らとともに参加。58年初期のテレビ界に取材した作品で個展「テレビの裏表」(小西六ギャラリー)開催。59年個展「沖縄の微苦笑」(富士フォトサロン、東京)、60年個展「わたしは大臣」(丸の内コロネード、東京)開催。62~65年働く女性をテーマにしたテレビ映画シリーズ24本の制作に携わる。74年横浜市使節団のメンバーとして旧ソビエトを取材撮影。85年以降はアルツハイマー症の老人たちをテーマに撮影を続ける。95年(平成7)神奈川県写真作家協会会長に就任。
[大日方欣一]
『『危険な毒花』(1957・三笠書房)』▽『『わたしの中のヨコハマ伝説 1954―1956』(2001・常盤とよ子写真事務所)』▽『桜井達男著、常盤とよ子写真『検診医』(1959・有紀書房)』▽『奥村泰宏・常盤とよ子著『横浜再見――二人で写した敗戦ストーリー』(1996・平凡社)』▽『「自立した映像群――写真の1955―1965」(カタログ。1991・山口県立美術館)』