土門拳(読み)どもんけん

精選版 日本国語大辞典 「土門拳」の意味・読み・例文・類語

どもん‐けん【土門拳】

写真家。山形県出身。昭和一〇年(一九三五名取洋之助の主宰する日本工房に入社、報道写真を学んだ。第二次世界大戦後、「絶対非演出の絶対スナップ」のリアリズム写真論を提唱。代表作ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」など。明治四二~平成二年(一九〇九‐九〇

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デジタル大辞泉 「土門拳」の意味・読み・例文・類語

どもん‐けん【土門拳】

[1909~1990]写真家。山形の生まれ。徹底したリアリズムの立場から「ヒロシマ」など社会的な題材に取り組む一方、「古寺巡礼」など伝統文化を独自の視点でとらえた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土門拳」の意味・わかりやすい解説

土門拳
どもんけん
(1909―1990)

写真家。山形県生まれ。1930年代から報道写真家として活躍、第二次世界大戦後の1950年代にリアリズム写真運動を推進した、20世紀の日本でもっとも高名な写真家の一人。1928年(昭和3)、横浜第二中学校を卒業。逓信(ていしん)省の倉庫係、弁護士の書生など職を転々とした後、1933年に東京・上野池之端(いけのはた)の営業写真館に弟子入りし、写真修業を始める。1935年写真家名取洋之助を中心に、海外向けのグラフ雑誌『NIPPON』の制作などを手がけていた日本工房に入社し、報道写真の仕事につく。1938年田村茂(1909―1987)、藤本四八(しはち)(1911―2006)、濱谷浩らと青年報道写真研究会を結成。同年、外相宇垣一成(うがきかずしげ)を撮影したルポルタージュが、アメリカの国際的グラフ雑誌『ライフ』に掲載される。1939年日本工房を退社、外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱託となる。同年奈良・室生寺を初めて訪れ、代表作「古寺巡礼」シリーズの撮影に着手。1941年より文楽(ぶんらく)の人形や名人たちの撮影に取り組み、第二次世界大戦中には、後に写真集『風貌(ふうぼう)』(1953)としてまとめられる文士、芸術家、科学者らの肖像撮影にも力を注いだ。

 第二次世界大戦後、フリーランスとなる。1948年(昭和23)、実験的なヌード作品「肉体に関する八章」(『写眞撮影叢書 第3集』)を発表。1950年『カメラ』誌の月例読者写真コンテスト審査員となり、「絶対非演出の絶対スナップ」「カメラとモチーフの直結」などのスローガンで写真におけるリアリズムを提唱、熱心にアマチュアの指導にあたった。土門が牽引(けんいん)した戦後日本におけるリアリズム写真の運動のなかから、福島菊次郎(1921―2015)、掛川源一郎、東松照明(とうまつしょうめい)、川田喜久治(きくじ)ら、優れた写真家が輩出している。

 1953年、東京・深川で「江東のこどもたち」と題するシリーズを撮影。1957年、週刊誌のグラフ取材で広島を初めて訪れ、同地で原爆被災をテーマとする撮影を始める。翌1958年、写真集『ヒロシマ』を刊行し、日本写真批評家協会作家賞を受賞。1960年、石炭産業の衰退がすすむ時期の九州・筑豊(ちくほう)炭田のルポルタージュ『筑豊のこどもたち』を、ザラ紙印刷の「百円写真集」として低価格で出版、10万部の大ベストセラーとなった。1960年代以降、脳出血の後遺症と闘いながら古陶磁の撮影や広島での再取材に取り組み、また「古寺巡礼」シリーズの完成を目ざした。1979年、脳血栓で倒れ、意識が戻らないまま1990年(平成2)、80歳で没する。1974年作品を故郷の山形県酒田市に寄贈し、1983年同市に土門拳記念館が開設された。また1982年、毎日新聞主催により、その年写真界に業績を残したプロの写真家を対象とする「土門拳賞」が設けられた。

[大日方欣一]

『『風貌』(1953・アルス)』『『室生寺』(1954・美術出版社)』『『ヒロシマ』(1958・研光社)』『『筑豊のこどもたち』(1960・パトリア書店)』『『るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊のこどもたち』(1960・研光社)』『『写真作法』(1976・ダヴィッド社)』『『土門拳全集』全13巻(1983~1985・小学館)』『『土門拳の昭和』全5巻(1995・小学館)』『『日本の写真家16 土門拳』(1998・岩波書店)』『三島靖著『木村伊兵衛と土門拳』(1995・平凡社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「土門拳」の意味・わかりやすい解説

土門拳 (どもんけん)
生没年:1909-90(明治42-平成2)

戦前,戦後を通じて,最も精力的な活動を展開した日本の代表的な写真家。山形県酒田市に生まれたが,1916年に東京に移転,当初画家志望であったが才能に限界を感じ,33年に営業写真館〈宮内写真館〉の内弟子となって写真の技術を学んだ。35年,名取洋之助の主宰する〈日本工房〉の写真技師として採用され,報道写真の技術と精神を身につけた。39年に同工房を退社し,〈国際文化振興会〉の嘱託として,大型カメラによる室生寺,文楽等の撮影を開始した(のち写真集として出版)。また43年には,初め雑誌《写真文化》に掲載されのちに写真集《風貌》(1953)に収録された,画家,作家等のポートレートによって〈第1回アルス写真文化賞〉を受賞,このとき高村光太郎は,土門の写真について〈土門拳の写真はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく〉と評している。戦後は50年から雑誌《カメラ》の月例写真審査員として,〈カメラとモティーフの直結〉〈絶対非演出の絶対スナップ〉を標榜する〈リアリズム写真運動〉を主唱し,アマチュア写真家たちに大きな影響を与えた。《ヒロシマ》(1958),《筑豊のこどもたち》(1960)の両ドキュメンタリー写真集はその重要な成果である。また《古寺巡礼》シリーズに代表される仏像,寺院等の記録写真は,彼の日本の伝統文化に対する独自な解釈と,対象を凝視するレンズの非情な記録性が結びついた,稀有な作品群となっている。83年には,生地酒田にその業績を記念して,日本の写真家としては初の個人美術館〈土門拳記念館〉が開設されている。
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百科事典マイペディア 「土門拳」の意味・わかりやすい解説

土門拳【どもんけん】

写真家。山形県生れ。日本大学専門部法科を中退し,上野,宮内写真場に入門して写真の道に入る。1935年,名取洋之助の主宰した〈日本工房〉に採用され,《NIPPON》をはじめとする対外宣伝雑誌に報道写真家として写真を発表。戦後は,各カメラ雑誌で幅広く活動。《ヒロシマ》(1958年)などの社会的ドキュメンタリーや,《古寺巡礼》シリーズなど日本の伝統文化を主要なテーマにした作品を残す。1961年に《筑豊のこどもたち》で毎日芸術賞受賞。1982年に土門拳賞(毎日新聞社主催)が設立される。1983年,生地酒田市に土門拳記念館開館。
→関連項目植田正治中川幸夫林忠彦

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土門拳」の解説

土門拳 どもん-けん

1909-1990 昭和時代の写真家。
明治42年10月25日生まれ。名取洋之助の日本工房で報道写真をまなぶ。昭和14年退社し,古寺巡礼の取材をはじめる。戦後は「絶対非演出の絶対スナップ」の写真リアリズムをとなえ,木村伊兵衛とともに写真界をリードした。平成2年9月15日死去。80歳。山形県出身。日大中退。写真集に「ヒロシマ」「筑豊(ちくほう)のこどもたち」「古寺巡礼」など。
【格言など】丸めて手に持てる,そんな親しみを見る人々に伝えたかった(「筑豊のこどもたち」をざら紙に印刷した理由)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土門拳」の意味・わかりやすい解説

土門拳
どもんけん

[生]1909.10.25. 酒田
[没]1990.9.15. 東京
写真家。 1935年名取洋之助の主宰する日本工房に入って報道写真家の道を歩む。第2次世界大戦後,精密で豪快なリアリズム的作風によって写真家としての地位を築いた。また写真雑誌を通じて写真リアリズム運動を提唱しアマチュア写真家を指導。人物,古美術を最も得意な題材とする。酒田市には土門拳記念館がある。主要作品『室生寺』 (1954,毎日出版文化賞) ,『ヒロシマ』 (58) ,『古寺巡礼』 (63) 。

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