三原村(読み)みはらむら

日本歴史地名大系 「三原村」の解説

三原村
みはらむら

[現在地名]川本町三原

川下かわくだり村の北西、江川支流木谷きだに川上流域に位置。

〔中世〕

正安三年(一三〇二)一〇月三日の左衛門尉時景寄進状(荘厳寺文書)によると、「石見国四箇村内三原村」の地蔵田五段が荘厳しようごん寺に寄進されている。同日の左衛門尉時景安堵状(武明八幡宮文書)にも「石見国四箇村内三原村」とみえ、応安五年(一三七二)七月一日の山城守信慶寄進状(荘厳寺文書)には「三原郷四ケ村」とみえる。ここにいう四ヵ村は現川本町の南佐木みなみさき地内白地しらじおよび北佐木・三原・田窪たくぼ地域をさすと考えられ、平安末期―鎌倉初期に邑智郡佐木本郷としてとらえられていたものが、鎌倉末期にこの地方に勢力を伸ばした大家おおえ庄地頭大家氏の勢力下に置かれて大家庄内となり、新たに邇摩にま郡三原郷として一括されるようになったと考えられる。応安八年三月六日の経氏・盛光連署打渡状(同文書)に「石見国大家庄内四ケ村荘厳寺々領」とみえるのがそれで、三原村は三原郷四ヵ村の一つであったことになる。


三原村
みはらむら

[現在地名]氷上町三原

南と西を山に囲まれ、北と東に谷が開ける。東は大谷おおたに村、西は高坂たかさか峠を越えて播磨国多可たか清水きよみず(現加美町)。領主の変遷は黒田くろだ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高四石余・畠高一五七石余、柴山・栗林あり、日損・水損少しあり。元禄郷帳では高一八六石余。元禄一二年(一六九九)の小物成一二石余・山役三石余(「氷上郡郷村明細帳」氷上郡志)。「丹波志」では高は変わらず、家数一〇〇。新検高二四三石余とあり、天保郷帳では高二五八石余。煙草・茶・桑・搗栗が名産(丹波志)。当村と北方の三方みかた村にかけての葛野かどの山に両村と氷上・氷間下ひまが市部いちべ犬岡いぬおか・黒田・上成松あげなりまつ柿芝かきしば(町)長野おさの中野なかのなか上新庄かみしんじよう・下新庄・常楽じようらく・大谷の葛野一六ヵ村の入会山がある。


三原村
みはらむら

[現在地名]竹野町三原

気多けた郡に属し、竹野川最上流域、三川みかわ山地東側中腹の高原に孤立して位置する。北は山を境に川南谷かなんだに村。江戸時代の領主の変遷は、当初は不明、寛永四年(一六二七)旗本宮城豊嗣の知行地となる。同二〇年同家断絶により収公されて幕府領(「断家譜」、寛永一六年知高帳、福井家文書)。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となるが、享保一一年(一七二六)収公されて幕府領となり(「寛政重修諸家譜」、「豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付」岡本家文書、「但馬国両代官所支配村々高帳」出石神社蔵など)、幕末に至る。


三原村
みはらむら

[現在地名]三原村

古くは柚木(柚ノ木)村といい、江戸時代にもそうよぶ場合があり(南路志ほか)、近代に入って柚ノ木に定着。三原郷本村で、三原郷大庄屋生城家は当地にあった。「土佐州郡志」は「有東西中ノ三名、東西十五町南北十三町、戸凡四十、其土黒」と記す。来栖野くるすの村の西にあり、三崎みさき(現土佐清水市)からいまノ山を越えてなか(現中村市)に抜ける街道が通じ、正徳六年(一七一六)の大庄屋差出(生城文書)によると、当地には番所が置かれ、送夫三人、伝馬一疋が定詰であった。


三原村
みはらむら

[現在地名]木造町福原ふくはら

西は中福原なかふくはら村に続き、田圃を隔てて北は菊川きくかわ村、東は上福原かみふくはら村、南西は床前とこまえ(現森田村)

貞享四年(一六八七)検地帳によれば、床前村の支村で、田畑屋敷合せて二四町五反二畝一五歩、村高二〇二・五六二石とある。うち田方は二一町八反六畝一四歩で一九二・一一七石、上田から下々田まであり、下田が一二町四畝二二歩、九六・三七九石とあり、畑方は二町六反六畝一歩で一〇・四四五石、上畑から下々畑まであり、下畑が一町七反八畝一四歩、五・三五四石とある。


三原村
みはらむら

[現在地名]三次市三原町

日下ひげ村の北、神之瀬かんのせ川の両岸に広がる村で、東西およそ一五町、南北およそ一里。江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)から享保五年(一七二〇)までは三次藩領。農業中心の村で「冬春作間之頃薪小炭類少々仕候得共、素より山所無数ニ付格別渡世に相成候程之儀も無御座」(国郡志下調書出帳)というが、「芸藩通志」は「すべて此辺は麻を多く種る」と記す。文政二年(一八一九)の農家数四六で、牛五二匹を飼育しており(同書)、その普及ぶりが注目される。

村内井手いでヶ原は天文年中(一五三二―五五)三吉氏と尼子氏が争った古戦場(芸藩通志)と伝え、三吉氏系図(「国郡志下調書出帳」所載)の一二代豊高の三男三郎右衛門に「志和地村八幡山城主番、天文庚子年布野合戦ニ同郡三原大井手ニ立花源太兵衛同牛尾蔵人ト相戦討死ス」と記す。


三原村
みはらむら

面積:八四・四七平方キロ

北部はかいもり(四五四・六メートル)の緩い南斜面、南部はいまノ山(八六四・六メートル)の北斜面にあたる高原上にある村で、中村市・宿毛すくも市・土佐清水市に囲まれる。村の北東部に源を発する三原川(下ノ加江川)が、北・西から流れ出る支流を下長谷しもながたにで合せて村の中央部から南東部を経てしも加江かえ(現土佐清水市)に流れる。この三原川流域は標高一五〇メートル前後の準平原的地形で、水田も比較的広がり、集落の大部分が立地。


三原村
さんばらむら

[現在地名]下呂町三原

飛騨川の西岸、同川と竹原たけはら川の合流点にある小村。北はしよう村。元禄飛騨国検地反歩帳に上呂じようろ郷として村名がみえ、高四石余、田四町余・畑一町四反余。「飛騨国中案内」によれば下呂郷で免二割四分六厘、家数三。松のあるまやか平山は御留山、梅ヶ平山は普請山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)


三原村
みはらむら

[現在地名]豊岡市三原

畑上はたがみ村東部の北に位置し、東は三原峠を経て丹後国熊野くまの河内かつち(現京都府久美浜町)に至る。文明三年(一四七一)成立の「大須賀時基郡境記」に「丹後と但馬との境は(中略)三原嶺は堂か限」とある。天正一九年(一五九一)畑上村との間の山論を山地を交換することで和解している(→畑上村。江戸時代の領主の変遷は駄坂ださか村に同じ。


三原村
みはらむら

[現在地名]和田町下三原しもみはら中三原なかみはら上三原かみみはら上三原飛地かみみはらとびち黒岩くろいわ

三原川流域に展開する村で、元禄郷帳では上・中・下の三村と黒岩村に分立しており、以後各々独立村として幕末に至る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一千一三三石余、うち田方七六九石余。里見氏給人領。元和六年(一六二〇)東条藩西郷氏に与えられ(同年東条藩領知目録)、元禄五年(一六九二)の同氏の移封まで続く。


三原村
みはらむら

[現在地名]但東町三原

出合であい村の北東、太田おおた川の流域を占め、集落は同川の左岸に発達。文禄四年(一五九五)出石(現出石町)に入部した小出吉政(のちの出石藩主)領となる。寛文六年(一六六六)小出吉重が父吉英の遺領を継いで出石藩主に就任した際、弟英本に二千石を分知、この時に旗本小出英本(倉見小出家)領となり、以後倉見小出領で幕末に至った(「小出氏系譜」山田家文書、「寛文朱印留」、宝暦七年但馬国高一紙など)


三原村
みはらむら

[現在地名]久美浜町字三原

佐濃谷さのだに川の支流三原川の上流に位置する。下流はせき村、上流は竹野郡日和田ひわだ(現網野町)に通じる。周囲を山に囲まれ、佐内そうち・三原・おかの三集落に分れる。

慶長検地郷村帳に「関村之内三原村」とみえるが、延宝三年郷村帳には関村に続けて「同三原分」高一七〇・七八石と個別に高付されている。


三原村
みはらむら

[現在地名]三日月町三原

弦谷つるだに村の南、標高三〇〇メートル級の高原台地上にある浅い谷間に立地する。志文しぶみ川と鞍居くらい川の分水界をなす。東は揖保いぼ下莇原しもあざわら(現新宮町)、南は赤穂郡金出地かなじ(現上郡町)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三原村」の意味・わかりやすい解説

三原〔村〕
みはら

高知県南西部,渭南山地の最高峰今ノ山 (868m) の北に位置する村。中村,宿毛,土佐清水の3市に囲まれる。丘陵性の地形で,谷には水田が比較的開けている。古くから用材木炭の生産で知られ,近年は畜産,茶栽培,施設園芸が発達。面積 85.37km2。人口 1437(2020)。

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