平塚宿(読み)ひらつかじゆく

日本歴史地名大系 「平塚宿」の解説

平塚宿
ひらつかじゆく

[現在地名]平塚市平塚・上平塚かみひらつかとうはら撫子原なでしこはら黒部丘くろべおか花水台はなみずだい菫平すみれだいらにじはま龍城りゆうじようおか桃浜ももはま町・さくらおか諏訪すわ町・中里なかざと豊原とよはら町・八重咲やえざき町・松風まつかぜ町・そではま富士見ふじみ町・立野たつの町・紅谷べにや町・追分おいわけ達上たんじようおか大原おおはら

南は相模湾に面し、西境花水はなみず川が流れる。東は平塚新宿ひらつかしんしく、西は淘綾ゆるぎ高麗寺こうらいじ(現中郡大磯町)、北は中原上なかはらかみ宿・中原下宿に接する。中央を東西に東海道が貫き、道幅四間一尺から六間、町並は道の両側東西一四町余にわたる。文政八年(一八二五)五月の平塚宿明細帳(平塚市史二)によれば花水川沿いの淘綾郡大磯宿(現大磯町)との地続きに秣場一一町余、中原上宿・中原下宿にかけて松を主とした御林一六ヵ所、一二二町六反余、上平塚町に達上池・まる池の二つの溜井がある。用水堀は東流して相模川へ落水するものと西流して広さ一反余の丸池へ落水するものとの二筋がある。

吾妻鏡」建久三年(一一九二)八月九日条によれば、北条政子の実朝出産の際安産祈願のため誦経を行った寺のなかに「範隆寺平塚」、源頼朝が神馬を奉納した神社のなかに「黒部宮平塚」とみえる。宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和五年(一三一六)と推定される三月二五日、および二七日付の二通の益性法親王書状(県史二)に「平塚宿」とある。称名しようみよう(現横浜市金沢区)第二代釼阿の招きにより鎌倉へ下っていた益性は、二八日暁に京へ出発する際、下法師八人を湯本ゆもと(現足柄下郡箱根町)まで借用、うち三人を当宿から返すことを約束している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の平塚宿の言及

【平塚[市]】より

…相模川下流の馬入(ばにゆう)川西岸の沖積平野を占め,臨海部には湘南砂丘が発達する。中心の平塚は近世,東海道の平塚宿として栄えたが,1887年に東海道本線が通じ,平塚駅を中心に市街が形成された。馬入は渡頭集落であった。…

※「平塚宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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