日本大百科全書(ニッポニカ) 「平松楽斎」の意味・わかりやすい解説
平松楽斎
ひらまつがくさい
(1792―1852)
江戸後期の津藩士、郡奉行(こおりぶぎょう)、督学(とくがく)参謀。名は正懿(まさよし)、通称健之助。藩医河野通賢の次男。平松正明の養子。藩校有造館(ゆうぞうかん)で学び、救荒植物の研究に励み、詩文・和歌にも造詣(ぞうけい)が深い。1833年(天保4)の大飢饉(ききん)には『救荒雑記』を公にし、翌年の凶作には藩民救済のため『救荒方法書』を著す。36年(天保7)の凶作には、米一升、麦五合に海藻、野草などを混ぜて煮、200余人の食作りに成功した。楽斎創製の草粥(くさがゆ)、救荒粥は『救荒心得』に記載されている。藤堂(とうどう)氏支配の津、久居(ひさい)、上野(うえの)で天保(てんぽう)の飢饉にほとんど餓死者が出なかったのは楽斎の功績といわれる。
[原田好雄]
『松島博著『近世伊勢における本草学者の研究』(1974・講談社)』