平河郷
ひらかわごう
現上平川・下平川一帯に比定される中世の郷。貞治元年(一三六二)頃とみられる一〇月一九日の西園寺実俊施行状(熊野速玉神社文書)の別紙貼継文書の筆頭に「平河郷」が掲げられており、二一二石余と記される。現南伊豆町普照寺蔵の大般若経のうち、永徳三年(一三八三)九月五日の奥書を持つ巻二六〇に、「遠州平河超金」が伊豆宇久須郷(現賀茂村)で書写したとみえる。また現山梨県中道町の日枝神社に伝わる大般若経の巻四七は、延徳四年(一四九二)九月一三日、当郷の赤堀藤大郎が書写している。年未詳だが「円通松堂禅師語録」巻三に、笠原庄平河郷の珠蔵芳心大姉が、円通禅院(現掛川市)に二度にわたり鐘を寄進していることがみえる(円通院鐘銘並序)。
平河郷
ひらかわごう
戦国期の郷で、現古関のうち平川が遺称地とみられる。天正一〇年(一五八二)一二月一〇日の徳川家印判状写(「巨摩郡古文書」若尾資料)に、「古関之郷・平河之郷関共四貫文」とみえ、九一色衆の土橋大蔵丞に宛行われている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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