後白河(ごしらかわ)天皇の后、高倉(たかくら)天皇の生母。院号を建春門院(けんしゅんもんいん)と称す。父は平時信(ときのぶ)、母は藤原祐子。時忠(ときただ)、時子(平清盛(きよもり)の妻)の妹にあたる。初め後白河天皇の妹上西門院(じょうさいもんいん)(統子内親王)に仕え少弁局(しょうべんのつぼね)と称したが、天皇の目にとまり寵幸(ちょうこう)を得て、1161年(応保1)憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)を生んだ。65年(永万1)憲仁が東宮(とうぐう)となり、次代天皇の外戚(がいせき)として時忠は権勢を振るった。67年(仁安2)女御(にょうご)に進み、翌年皇太后(こうたいごう)となった。69年(嘉応1)院号宣下を受け建春門院と称した。後白河院の寵愛が深かった滋子の存在は、義兄清盛の昇進を助け、平氏政権樹立に重要な役割を果たした。安元(あんげん)2年7月8日に没した。
[田辺久子]
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…平安末期の武将。平忠盛の嫡子。白河院の落胤(らくいん)といわれ,母は祇園女御(ぎおんのにようご)の妹とする説が有力。白河院の寵姫であった祇園女御妹が懐妊したまま忠盛に下賜され,生まれたのが清盛という。この生母は清盛生誕の翌々年に病没したらしい。通称〈平相国(へいしようこく)〉〈平禅門(へいぜんもん)〉,またその居所から〈六波羅殿(ろくはらどの)〉〈六波羅入道〉とも呼ばれた。
[軍事権門化]
平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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