平滋子(読み)タイラノシゲコ

デジタル大辞泉 「平滋子」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐しげこ〔たひら‐〕【平滋子】

建春門院けんしゅんもんいん実名

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精選版 日本国語大辞典 「平滋子」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐しげこ【平滋子】

  1. ( 後白河天皇女御 ) ⇒けんしゅんもんいん(建春門院)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平滋子」の意味・わかりやすい解説

平滋子
たいらのしげこ
(1142―1176)

白河(ごしらかわ)天皇の后、高倉(たかくら)天皇の生母。院号を建春門院(けんしゅんもんいん)と称す。父は平時信(ときのぶ)、母は藤原祐子。時忠(ときただ)、時子(平清盛(きよもり)の妻)の妹にあたる。初め後白河天皇の妹上西門院(じょうさいもんいん)(統子内親王)に仕え少弁局(しょうべんのつぼね)と称したが、天皇の目にとまり寵幸(ちょうこう)を得て、1161年(応保1)憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)を生んだ。65年(永万1)憲仁が東宮(とうぐう)となり、次代天皇の外戚(がいせき)として時忠は権勢を振るった。67年(仁安2)女御(にょうご)に進み、翌年皇太后(こうたいごう)となった。69年(嘉応1)院号宣下を受け建春門院と称した。後白河院の寵愛が深かった滋子の存在は、義兄清盛の昇進を助け、平氏政権樹立に重要な役割を果たした。安元(あんげん)2年7月8日に没した。

[田辺久子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平滋子」の意味・わかりやすい解説

平滋子
たいらのしげこ

[生]康治1 (1142). 京都
[没]安元2 (1176).7.8. 京都
後白河院(→後白河天皇)の后。高倉天皇の母。父は時信,兄は時忠,姉は平清盛の妻時子である。初め後白河院の姉上西門院に仕え少弁局(しょうべんのつぼね)と称していたが,やがて院の目にとまり寵幸を得て,応保1(1161)年憲仁親王(高倉天皇)を産んだ。仁安2(1167)年女御となり,2年後院号宣下を受け,建春門院と称した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平滋子」の解説

平滋子 たいらの-しげこ

建春門院(けんしゅんもんいん)

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世界大百科事典(旧版)内の平滋子の言及

【平清盛】より

…平安末期の武将。平忠盛の嫡子。白河院の落胤(らくいん)といわれ,母は祇園女御(ぎおんのにようご)の妹とする説が有力。白河院の寵姫であった祇園女御妹が懐妊したまま忠盛に下賜され,生まれたのが清盛という。この生母は清盛生誕の翌々年に病没したらしい。通称〈平相国(へいしようこく)〉〈平禅門(へいぜんもん)〉,またその居所から〈六波羅殿(ろくはらどの)〉〈六波羅入道〉とも呼ばれた。
[軍事権門化]
 平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。…

※「平滋子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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