平親範(読み)たいらのちかのり

朝日日本歴史人物事典 「平親範」の解説

平親範

没年承久2.9.28(1220.10.25)
生年保延3(1137)
平安末・鎌倉前期の公卿,僧。従三位範家の子,母は中納言藤原清隆の娘。蔵人頭,参議,左中弁を経て,承安1(1171)年民部卿・正三位に至る。同4年大原極楽院にて出家,戒師は来迎院縁忍,法名相蓮房円智。のち,洛北出雲寺を再興,本願となって同寺に父祖伝来の平等・尊重・護法の3寺を併せた一堂を建立し,私領を寄進する。また建保2(1214)年にはその起請文を作成している。この堂は毘沙門堂と号され,近世初期山科に移されて今日に至る。出雲路入道,毘沙門堂民部入道と号される。『親範記』(散逸),『相蓮房円智記』がある。『千載集』に1首入集。はじめ鳥羽法皇近臣で,崇徳上皇が親範の目を潰したとの報告(誤報)に,臨終の鳥羽法皇が「御目をきらりと見上げ」と『愚管抄』が記す話は有名。

(今村みゑ子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平親範」の解説

平親範 たいらの-ちかのり

1137-1220 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),僧。
保延(ほうえん)3年生まれ。参議となり,承安(じょうあん)元年民部卿をかね,正三位にすすむが,4年病気のため出家。焼失した出雲(いずも)寺の再建つくし,毘沙門堂の本願主となった。承久(じょうきゅう)2年9月28日死去。84歳。死後左大臣,正一位をおくられた。法名は円智。通称は相蓮房など。著作に「相蓮房円智記」。

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