朝日日本歴史人物事典 「平親範」の解説
平親範
生年:保延3(1137)
平安末・鎌倉前期の公卿,僧。従三位範家の子,母は中納言藤原清隆の娘。蔵人頭,参議,左中弁を経て,承安1(1171)年民部卿・正三位に至る。同4年大原極楽院にて出家,戒師は来迎院縁忍,法名相蓮房円智。のち,洛北の出雲寺を再興,本願となって同寺に父祖伝来の平等・尊重・護法の3寺を併せた一堂を建立し,私領を寄進する。また建保2(1214)年にはその起請文を作成している。この堂は毘沙門堂と号され,近世初期山科に移されて今日に至る。出雲路入道,毘沙門堂民部入道と号される。『親範記』(散逸),『相蓮房円智記』がある。『千載集』に1首入集。はじめ鳥羽法皇の近臣で,崇徳上皇が親範の目を潰したとの報告(誤報)に,臨終の鳥羽法皇が「御目をきらりと見上げ」と『愚管抄』が記す話は有名。
(今村みゑ子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報