アラゴン連合王国(読み)アラゴンれんごうおうこく(英語表記)Corona de Aragón

改訂新版 世界大百科事典 「アラゴン連合王国」の意味・わかりやすい解説

アラゴン連合王国 (アラゴンれんごうおうこく)
Corona de Aragón

イベリア半島東部の中世アラゴン,カタルニャ,バレンシア3国とバレアレス諸島から成る連合国家で,1137年から18世紀初頭まで続いた。連合を構成する各国の独自性を尊重するその政治伝統は,カスティリャの中央集権的傾向に対する拮抗要素として,イベリア半島の政治史の中できわめて重要な働きをした。

 アルフォンソ1世の死(1134)によってアラゴンは重大な危機に立たされた。王位継承者はなく,ナバラは離反し,カスティリャはイスラム期の旧サラゴサ王国領に対する野心をいっそう露骨に打ち出してきた。そこですでに修道生活に入っていた王弟ラミロ(2世)が貴族たちの指名を受けて即位,やがて結婚してペトロニーラが生まれると,これをカタルニャ伯ラモン・ベレンゲール4世に嫁がせることによって危機の打開を図った。2人の結婚は厳密に王族間の私的行為と解釈され,アラゴンとカタルニャ2国の合併ないしは統合を意味するものではなかった。したがって両国の法律,政治行政制度,慣習等はすべて従前通り存続した。国境や税関にも変化はなく,またカタルニャ人がアラゴンの公職に就くこともなく,その逆も起こらなかった。

 しかしながら,支配者を共有するという形のこの連合は,対外的には十分にその効果を発揮した。サラゴサ問題はアラゴンに有利に解決する一方,カタルニャはまもなく自国のレコンキスタ国土回復戦争)に決着を付けた(1153)。そしてさらにこの実績を背景に,その後のアル・アンダルス征服に関してカスティリャとの間に互角の立場から一連の条約締結に成功した。13世紀,ハイメ1世の長い治世(1213-76)の間に,アラゴン連合は時代の勢いに乗じてさらに大きな飛躍を遂げた。世紀前半にはバレアレス諸島とバレンシアを征服して国土回復戦争を終了,これに王国としての体制を与えて新たに連合に加えた。次いで世紀後半には〈シチリアの晩鐘〉(1282)を契機にイタリアへの進出が始まった。フランスとローマ教皇庁を相手に執拗(しつよう)な闘いが続くなかで,シチリアとサルデーニャ両島におけるアラゴン王の支配は強化されていき,ついには1442年イタリア本土南半分を占めるナポリ王国もアルフォンソ5世によって征服された。

 16~17世紀を通じては近代スペインの主役を担うカスティリャの圧倒的な勢いに押され,またカタルニャの停滞もあってアラゴン連合王国は影の薄い存在だった。それでもペレス事件(A.ペレス)の際のフェリペ2世とアラゴンの対立や,オリバレス伯公爵の強引な中央集権化政策に対するカタルニャの反乱に見るように,その政治伝統は根強く生き続けた。他方,連合の原理は前述のイタリアへの進出,カトリック両王の結婚(1469)を介してのカスティリャとの結び付き,ナバラの編入(1515),フェリペ2世のポルトガル王位継承(1581)等の際にも生かされた。つまり,これらはいずれも一方が他を合併するというものではなく,王権とそれぞれの国との結び付きによる,言うなればブドウの房にも似た連合国家形成の歩みであった。それは国王に象徴される中央権力と,独自の法と議会に代表される地方権力の共存を可能にするものだった。

 アラゴン連合王国はスペイン王位継承戦争(1701-14)では,ブルボン朝のフェリペ5世に反対した。このために同王は一連の新国家基本令(1707-16)を発して,その独自な体制を廃止した。
副王制
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百科事典マイペディア 「アラゴン連合王国」の意味・わかりやすい解説

アラゴン連合王国【アラゴンれんごうおうこく】

中世イベリア半島のアラゴン王国は1035年ラミロ1世が建国。以後イスラム教徒を圧迫しつつ南方に国土を拡大(国土回復戦争),1137年からカタルーニャとともに連合王国となった。両国は法律,政治行政制度を変えることなく,支配者を共有する形をとった。13―14世紀にはバレンシアも加え,シチリア,サルデーニャなどを併合。1479年フェルナンド2世のときカスティリャ王国と合体し,スペイン統一国家の基礎となった。
→関連項目アラゴンサラゴサナポリ王国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アラゴン連合王国」の解説

アラゴン連合王国(アラゴンれんごうおうこく)
Corona de Aragón

1137~1479

バルセロナ伯とアラゴン王女との結婚によって1137年に成立したカタルニャ‐アラゴン同君連合国家。ハイメ1世の治世にマジョルカ島バレンシアを征服し,レコンキスタを完了すると,13世紀末葉から地中海方面に進出,15世紀中葉までにシチリアサルデーニャナポリ王国などを版図に加え,地中海全域に及ぶ「海洋帝国」を築き上げた。1479年カスティリャ王国との同君連合を実現,ここにスペイン王国が成立した。

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世界大百科事典(旧版)内のアラゴン連合王国の言及

【スペイン】より

…フランスの中央集権国家体制をスペインに移植することを意図したカスティリャ王国は,フランス王ルイ14世(王妃はカルロス2世の姉マリア・テレサ)の孫アンジュー公フィリップを擁立した。他方,歴史体験に基づくナショナルな感情に依拠して,カスティリャ王国の意図に反対するアラゴン連合王国(アラゴン王国,バレンシア王国,バルセロナ伯国,マリョルカ王国からなる)は,神聖ローマ帝国皇帝の次男カールを次期王位継承者として支持した。国内の戦いでは,緒戦に,アラゴン王国とバレンシア王国がフランス・カスティリャ連合軍の軍門に下り,反逆したかどでカルロス2世の時代まで保持していた特権を剝奪された(1707年6月29日)。…

【スペイン帝国】より

…さらに自国領以外の土地およびその住民に対する統治行為の意味に〈帝国〉を解するならば,〈スペイン帝国〉は1898年まで続いた。
[スペインの誕生]
 15世紀後半,イベリア半島はカスティリャ,アラゴン連合王国(以下アラゴンと略記),ポルトガル,ナバラおよびイスラム教徒のグラナダ王国(ナスル朝)の5ヵ国に分かれ,そこにはまだスペインという国はなかった。しかし,カスティリャにイサベル1世が立ち(1474),次いでアラゴンの王位にフェルナンド2世が就くと(1479),その後40年足らずの間にポルトガルを除く4ヵ国はカトリック両王のもとに一つの王権を共有するという形で新しい政治単位を形成,周辺諸国はこれをスペインと呼び始めた。…

【トラスタマラ朝】より

…中世後半イベリア半島のカスティリャとアラゴン連合王国の2国を統治した王朝。1369年初頭,カスティリャ王アルフォンソ11世の庶子でトラスタマラ伯エンリケは,父王を継いだ嫡子ペドロ1世をその手で刺殺,エンリケ2世Enrique IIとして王位に就き,新たにトラスタマラ朝を開いた。…

【副王制】より

…構成各国が独自の体制を維持しつつ,ひとつの王権を共有するという特異な連邦国家を形成したアラゴン連合王国の統治制度。16世紀以降インディアスでも施行された。…

【ラモン・ベレンゲール[4世]】より

…在位1131‐62年。1137年,隣国アラゴンのペトロニーラ王女との結婚によって同国と自国カタルニャを連邦の形で結びつけ,いわゆるアラゴン連合王国を発足させた。さらに44年以降はプロバンス侯国の支配権も握って先代以来のカタルニャとのきずなを一段と固めた。…

※「アラゴン連合王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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