ヨハネス(読み)よはねす(英語表記)Johannes Saresberiensis

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨハネス」の意味・わかりやすい解説

ヨハネス(23世)(ローマ教皇)
よはねす
Johannes ⅩⅩⅢ
(1881―1963)

ローマ教皇(在位1958~1963)。俗名アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリAngelo Giuseppe Roncalliといい、ベネチア総大司教からピウス12世の後を継ぎ、76歳で教皇に選出される。農民出身の素朴な人柄で人望を集めたが、15世紀の教会大分裂時代に出た教皇名をあえて名のったところに、現代教会に対する厳しい認識と覚悟がうかがえる。教会の刷新を使命とし、1960年キリスト教一致推進事務局を設置、エキュメニズムの運動を促進させる。東方正教会との接近をはじめとする精力的な活動を展開し、1962年には第二バチカン公会議の開催に踏み切り、古い体質からの脱却を図った。回勅『マーテル・エト・マジストラ』は、仕儀、公平、人類愛、信仰の自由を尊重する団体を称賛した。1963年に発表した彼の回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』は全世界から等しく高い評価を受けた。

[磯見辰典 2017年12月12日]

『J・ハヤール他著、上智大学中世思想研究所編訳・監修『キリスト教史 第11巻』新装版(1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』


ヨハネス(ソールズベリーのヨハネス)
よはねす
Johannes Saresberiensis
John of Salisbury
(1115―1180)

中世の人文主義者。イングランドソールズベリーに生まれ、フランスで勉学。カンタベリー大司教テオバルドゥスTheobaldus(在位1138~1161)、トマス・ア・ベケット(在位1162~1170)を補佐し、1176年シャルトルの司教となる。著作『メタロギコン』Metalogicon(1159)で古典の研究を勧め、言語の学習と人間性の高揚との関連を力説して人文主義の理念を説いた。『ポリクラティクス』Policraticus(1159)では偽善と軽佻浮薄(けいちょうふはく)な風潮を批判して国家論を展開するが、高い倫理的時代意識がうかがわれる。多くの書簡と『教皇史』Historia pontificalis(1164ころ)は、史料として重要である。

[柏木英彦 2015年2月17日]

『柏木英彦著『中世の春』(1976・創文社)』


ヨハネス(23世)(ピサ選立教皇)
よはねす
Johannes ⅩⅩⅢ
(1370―1419)

「教会大分裂」の三教皇鼎立(ていりつ)(ローマアビニョン、ピサ)時代のピサ選立教皇(在位1410~1415)。バルダサーレ・コッサBaldassare Cossaが俗名。ドイツのジギスムント王が招集したコンスタンツ公会議(1414~1418)に彼は同意したが、その野心と所業を非難する者が多く、この会議中逃亡した。公会議はヨハネス23世を裁判にかけ、1415年有罪として廃位が決定した。1418年までドイツに抑留、赦免された翌1419年死去した。

[磯見辰典 2017年12月12日]

『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史 第4巻』新装版(1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』


ヨハネス(1世)
よはねす
Johannes Ⅰ
(925―976)

ビザンティン皇帝(在位969~976)。アルメニア出身の軍人貴族で、皇帝ニケフォロス2世の妻テオファノTheophano(生没年不詳)と通じ、同帝を暗殺して即位。旧ブルガリア王国領を占拠したキエフ大公国の王スビャトスラフSvyatoslav Igorevich(?―972)を破り(971)、ドナウ川南岸の地をふたたび帝国領とした。シリア、メソポタミア地方にも遠征し、アンティオキアダマスカスなどの東地中海沿岸の重要都市を奪回した(972~975)。また、前代からの難問であった神聖ローマ皇帝オットー2世に対する婚姻政策は、姪(めい)のテオファーノ(955ころ―991)を降嫁させることによって解決し(972)、西欧世界との対決を避けた。東方遠征において勝利を収めたのち、チフスにかかり急逝した。

[和田 廣]


ヨハネス(3世)
よはねす
Johannes Ⅲ
(1193―1254)

ビザンティン皇帝(在位1222~54)。第4回十字軍のためニカイアに亡命した皇帝テオドロス1世の娘イレーネの夫。義父の死後即位。有能な軍人で、ポイマネノンの戦い(1225)でラテン王国に勝ち、第4回十字軍による首都陥落後のエピルスの亡命政権と、テッサロニキ公国には、宗主権を認めさせた。さらにレスボス、キオスロードスの諸島およびアドリアノープルを奪回するなどニカイア政権の領土を倍増した。内政的にもプロノイア制(土地制度)の復活、外国人傭兵(ようへい)に頼らぬ自国軍兵士による国防力の増強、官僚制度の樹立など、いわば「小ビザンティン帝国」をつくりあげ、後の帝国復興の基礎をつくった。てんかんにより病没。のちギリシア正教会により「憐み深き人」として聖人に叙せられた(11月4日・聖人暦による祝日)。

[和田 廣]


ヨハネス(12世)
よはねす
Johannes Ⅻ
(937―964)

ローマ教皇(在位955~963)。18歳で教皇座についた。ドイツ国王オットー1世(在位936~973)に教会統治に関して援助を求めたことにより、962年彼を神聖ローマ皇帝として戴冠(たいかん)することになった。しかし、翌年反対派の扇動にのった皇帝の手で裁判に付されてヨハネスは退位させられ、かわってレオ8世(在位963~965)が選出された。機会を得てヨハネスはふたたび教皇座につき、レオを破門したが、まもなく死去した。

[磯見辰典]

『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史3』(1981・講談社)』


ヨハネス(5世)
よはねす
Johannes V
(1332―1391)

ビザンティン皇帝(在位1341~76、1379~91)。父アンドロニコス3世の死後9歳で即位。母アンナの摂政(せっしょう)に反対する元宰相カンタクゼノス(ヨハネス6世)の反乱と帝位簒奪(さんだつ)(1341~54)により、政治の実権を握ったのは22歳のときである。内乱により弱体化した帝国の周辺では、アドリアノープル(1362)、マケドニア(1371)がトルコ領となり、セルビア王国がトルコに屈したとき(1370)、ビザンティン帝国も進貢義務を負うトルコの衛星国になり下がった。皇帝は、この重圧を逃れるため教会統一を条件に西欧の軍事援助を求めたが、不成功に終わった。そしてトルコ軍の包囲網が狭まり、政情不安が増大し、帝位をマヌエル2世に譲った。

[和田 廣]


ヨハネス(22世)
よはねす
Johannes ⅩⅩⅡ
(1245ころ―1334)

中世末期のローマ教皇(在位1316~34)。フランスのカオールに生まれる。パリとオルレアンで神学、法学を修め、カオールとトゥールーズで法学を講じた。ナポリ王シャルル2世の宰相を歴任したのち、第3代アビニョン教皇として登位。即位後ただちにフランシスコ会厳格派を断罪し、清貧に関する激しい論争を展開した。1314年の皇帝二重選挙を契機としてルードウィヒ4世と争って破門を宣告し、皇帝陣営にくみしたマルシリオ・ダ・パドバ、ウィリアム・オッカムと論争した。アビニョン教皇庁の組織化を進め、財政再建に努めた。法学者教皇として『クレメンス5世教会法令集(第7書(リベル・セプティムス))』を公布し、さらに自らの教令を『追加教皇令書』として収録した。

[梅津尚志]


ヨハネス(2世)
よはねす
Johannes Ⅱ
(1088―1143)

ビザンティン皇帝(在位1118~43)。コムネノス朝のもっとも有能な皇帝。アレクシオス1世の長男で父の死後即位。対外的にはペチュネグ人をマケドニアとトラキアで大破し(1122)、同年セルビア王国に宗主権を認めさせた。東部ではメリテネのダニシュメンド太守国(1135)、キリキアのアルメニア分離国家(1137)、アンティオキアのノルマン支配(1137)を制圧し、国威を高めた。バルカン半島ではマジャール人の内乱を平定し(1126~28)、ここにも平和をもたらした。さらにシチリアのロジェール2世に対し、ピサ市とコンラート3世(神聖ローマ皇帝)による反ノルマン同盟を結成するが、狩猟中の事故により死去。

[和田 廣]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨハネス」の意味・わかりやすい解説

ヨハネス
Johannes

教皇セルギウス2世(在位 844~847)の対立教皇(在位 844.1.)。ローマの民衆から強い支持を受けた大司教であり,貴族階級の推すセルギウス2世を退けて 844年1月に教皇に選出された。同時にセルギウス2世も皇帝の勅許を得ないままサン・ピエトロ大聖堂で教皇に登位した。ヨハネスはラテラノ宮殿にこもっていたが,貴族らに殺されるところを,セルギウス2世の介入により命を救われ,修道院に幽閉された。844年6月,セルギウス2世はフランク帝国(→神聖ローマ帝国フランク王国)の皇帝ロタール1世(在位 840~855)の承認を受けて正式に教皇となり,それ以降のヨハネスの記録は残されていない。

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