日本歴史地名大系 「幸新田村」の解説 幸新田村さいわいしんでんむら 愛媛県:越智郡吉海町幸新田村[現在地名]吉海町幸新田大島の津倉(つくら)湾内埋立により、元禄一〇年(一六九七)にできた新田村で、島内の穀倉地帯をなす。江戸中期以降今治藩も盛んに新田開発を行ったが、大島では元禄二年の仁江(にえ)・八幡(やわた)両村の新田に続き、同六年には舫大川(もやいおおかわ)じりに待望の沖土手堤、長さ五町二間が完成、海をさえぎることに成功した。翌年、仁江村大庄屋野間治兵衛、宮窪(みやのくぼ)村大庄屋河上助左衛門、本庄(ほんじよう)村源兵衛ら七名が藩より褒美をもらっている(「今治拾遺」今治史談会蔵)。続いて名(みよう)村から水門に至る大川堤、長さ六町四〇間を築き、元禄一〇年には埋立が完了し、幸新田が誕生した。初代庄屋は仁江村の神職忠道の三男孫右衛門である。面積は明和二年(一七六五)に田一四町四反(幸新田田畑野取帳)、その後明和、安永(一七七二―八一)、寛政(一七八九―一八〇一)と開発を続け、明治一三年(一八八〇)の地誌書上帳(吉海町教育委員会蔵)では、田二七町七反、畑二町五反となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by