府中宿(読み)ふちゆうしゆく

日本歴史地名大系 「府中宿」の解説

府中宿
ふちゆうしゆく

[現在地名]静岡市伝馬町横田町江川町・呉服町二丁目・七間町・人宿町二丁目・梅屋町・新通一―二丁目・川越町など

東海道五三次の江戸から一九番目の宿場。宿村大概帳に「宿内町並南北弐拾八町」、南安東みなみあんどう村境から川辺かわなべ村境までの宿往還の長さ二里二二町とある。これによれば、駿府城下東端の下横田しもよこた町の東見付から伝馬てんま町を経て、江川えがわ町から城下中心部の呉服ごふく町に至り、同町中央で西に折れて札之辻ふだのつじ町・七間しちけん町を抜け、さらに北に折れて人宿ひとやど町に入り、梅屋うめや町で西に折れて新通しんとおりを抜け、新通川越しんとおりかわごし町の西見付に至る往還を府中宿と称したことになる。東の江尻えじり宿(現清水市)へ二里二五町、西の丸子まりこ宿へ一里一六町(宿村大概帳)。慶長六年(一六〇一)一月、江戸幕府は「駿河府中町年寄中」に対し伝馬を三六疋とすることを定め、一疋につき四〇坪を地子免除とした(「徳川家奉行衆連署伝馬掟書写」駿河志料)。これが当宿の成立である。宿村大概帳によると地子免許一万坪、問屋給米七石・継飛脚給米二六石余、人馬継立場は伝馬町にあり、宿立人馬は一〇〇人・一〇〇疋。


府中宿
ふちゆうしゆく

甲州道中の江戸から四番目の宿。ほん町・番場ばんば宿・新宿の三町からなる。慶長年間(一五九六―一六一五)に設置された甲州道中は当初、現在の調布市境から南寄りの品川道を通り、大国魂おおくにたま神社(六所宮)の随身門前を経て、本町でハケ下の水田地帯へ下り、国立市境を西に進んで多摩川を渡り、日野市万願寺まんがんじへと向かう道筋で、現清水が丘しみずがおか三丁目に常久つねひさ一里塚跡、現日新につしん町一丁目に本宿ほんしゆく一里塚跡が残っている。田園簿の武蔵国道法によれば布田ふだ(現調布市)から府中まで一里二一町、府中から日野本郷(現日野市)までは二里五町。府中宿の設置は慶長年間とされるが、三町に分れた時期は不明(風土記稿)。これが段丘上に移ったのは慶安年間(一六四八―五二)とも(風土記稿)、貞享年間(一六八四―八八)ともいわれる(武蔵名勝図会)。江戸中期以降の宿は江戸から七里二六町余、東は布田五宿でその中心上布田宿まで一里二五町、西は多摩川を渡って日野宿まで二里(宿村大概帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の府中宿の言及

【静岡[市]】より

…古代には駿河国府が置かれ,国分寺も建立された。鎌倉時代以降,東海道の宿駅,府中宿として発展し,室町時代中ごろから駿府(すんぷ)の名も用いられるようになった。南北朝時代には今川氏の居館地となって城下町が整備され,一時武田氏の支配下に置かれたが,1607年(慶長12)徳川家康が隠居城として駿府城を築き,16年(元和2)まで大御所政治が行われ,江戸と並ぶ日本政治の中心地となった。…

【駿府】より

…大手門と四足門を結ぶ東西の線に平行な街町を縦町とし,それと直角に交差する南北の街町を横町として碁盤目状の町割りをなし,それより東西南に延びる3筋の街町から成り立つ。東海道府中宿にあたる町並みは東の横田見付から伝馬町に至り,呉服町,札の辻,七間町を経て新通川越町の西見付まで28町で,伝馬町に本陣,脇本陣,問屋場があった。城の東・西・北の3面は勤番組が居住する武家屋敷が取り囲み,それぞれ一加番,二加番,三加番が置かれた。…

※「府中宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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