駿府城下(読み)すんぷじようか

日本歴史地名大系 「駿府城下」の解説

駿府城下
すんぷじようか

現在の静岡市街に形成された駿府城を中心とする城下町。東海道府中宿がある。大御所徳川家康、さらに徳川頼宣・忠長の駿府在城は江戸初期に限られ、寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後、駿府城は城番制となった。そのため家臣団が集住する武家地をもつ藩庁としての城下に比べ、町人町としての性格が強い城下であった。慶長一四年(一六〇九)に完成した駿府城は安倍あべ川左岸に位置し、同川を天然の要害とし、北には賤機しずはた山が立地する。なお以下の記述や駿府城跡および駿府城下各町での方角は、便宜的に北西を北として記述した。「駿河志料」によると、城下の町割は縦(縦筋・縦町)を南北、横(横筋・横町)を東西としている。したがって現在の呉服ごふく町は南北の町並、本通ほんとおりは東西の町並ということになり、地元の方位感覚も同様となっている。

〔城下と安倍川治水〕

安倍川の治水は駿府城下にとって重要課題で、駿府築城とともに城下を水害から守るため左岸に長大な大堤が築かれた。薩摩さつま土手・火屋ひやん土手などと通称される堤防で、現在の賤機山西側の井宮いのみや妙見下みようけんしたから中野なかの新田まで長さ二千四〇〇間余、高さ三間、馬踏六間、敷一三間の規模をもつ(駿河志料)。築堤は薩摩藩(鹿児島藩)御手伝普請によるものとされ(同書)薩摩土手の名称があるが、確証はない。また火屋土手の名は土手上に明治末年まで火葬場があったことによる。「当代記」には慶長一七年八月一日のこととして「安倍川洪水、堤まさに切れむとす、昨夕安西衆諸人薪材木土俵を以てこれを防ぐ、普請あるべき由、彦坂九兵衛これを申す」と記される。薩摩土手は霞堤と称される甲州流の雁行型の堤防で、所々切断された場所に再び堤が築かれ、流路は全体として二重、三重の堤で固定される仕組となっている。

〔城下町の建設と構造〕

城下町の建設は駿府築城とともに実施された。「修訂駿河国新風土記」は慶長一四年のこととして、「彦坂九兵衛光正、畔柳寿学を奉行として縄張して今の町を割らしめ給ひきといふ、而して今の町の成れるは友野宗善が力なり」と伝えている。前述のように彦坂光正は安倍川堤防普請を管掌していることから、光正が大きな役割をはたし、畔柳寿学や町年寄友野宗善が協力したものと考えられる。城下の町割は駿府城の西側に碁盤目状に縄張りされ、大手門と四足門を基点として南北に一直線を引き、その中心を札之辻ふだのつじとした。そしてこれと並行する街町を縦町と称して八行、縦町と直交する東西の街町を横町と称して一二行からなる城下を形成した(「駿河記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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