康楽寺(読み)こうらくじ

日本歴史地名大系 「康楽寺」の解説

康楽寺
こうらくじ

[現在地名]長野市篠ノ井塩崎 角間

北国西脇往還(善光寺道)の西にあり、浄土真宗白鳥山報恩院康楽寺と称し、本尊阿弥陀如来

開基の西仏坊は小県ちいさがた滋野しげのの海野小太郎幸親の子で、勧覚院文章博士に進み、木曾義仲の軍師もつとめた。義仲没後は天台座主慈円の門に入り、のち法然の弟子となり、名を西仏と改めた。

武田信玄は永禄一一年(一五六八)高札を掲げて寺を保護、同年八月二日には寺領八〇貫文を寄進(康楽寺文書)。勝頼は天正六年(一五七八)八月二一日、康楽寺の末寺及び寺内寺の人々に妻妾を有することによって人頭役を免除するなど異例の保護を加えた(同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の康楽寺の言及

【覚明】より

…義仲敗亡後は箱根山神宮寺にいたが,頼朝の知るところとなり,1195年(建久6)山内に禁足されたと《吾妻鏡》に伝える。《和漢三才図会》《本願寺通紀》等によれば,やがて叡山に戻り,浄寛と号して慈円の下に寄寓し,のち,法然の弟子となり,親鸞に従って西仏と改名し,信濃国埴科郡海野庄に康楽寺を開いたと伝える。その著《筥根山縁起》《和漢朗詠集私註》《三教指帰註》等がある。…

※「康楽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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