康濯(読み)こうたく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「康濯」の意味・わかりやすい解説

康濯
こうたく / カンチュオ
(1920―1991)

中国の小説家。本名は毛季常(マオチーチャン)。湖南(こなん/フーナン)省湘陰(しょういん/シアンイン)県城の人。省立長沙(ちょうさ/チャンシャー)高級中学校在学中、冀東(きとう/チートン)自治政府反対の一二・九学生運動(1935)に参加。抗日戦中の1938年、延安(えんあん/イエンアン)に行き、魯迅(ろじん)芸術学院入学、やがて中国共産党に入党。卒業後、一時八路軍120師団従軍記者をした後、魯迅芸術学院研究生。1939年華北聯合(れんごう)大学とともに晋察冀(しんさつき/チンチャーチー)辺区(へんく/ピエンチュー)(抗日根拠地)に行き(華北の複数の大学が連合して奥地に移転)、同大学文芸工作団で抗日宣伝に従事。『軍政雑誌』『文芸戦線』に作品を発表し始める。また同辺区文化界抗敵救国会宣伝部長として活躍。1943年短編『蝋梅花(ラーメイホワ)』(短編集は1978年刊)、『災難的明天(災難の翌日)』(短編集は1946年刊)を発表、辺区農民が社会の主人公として目覚め、生産と闘争に奮闘する姿を描いて好評を得る。当時毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の『文芸講話』(1943年10月19日『解放日報』)を読み、深い感銘を受ける。抗日戦勝利後の1946年、晋察冀辺区の新聞『工人報』と雑誌『時代青年』の主編となる。また土地改革運動の工作隊責任者として活躍、無限の小説素材を得て多くの短編を書く。短編集『我的両家房東(私の二軒の家主)』(1947)、『工人張飛虎(チャンフェイフー)』(1949)、『親家(親戚)』(1949)および長編『黒石坡煤(ヘイシーポーメイヤオ)演義(ヘイシーポー炭鉱物語)』(1950)等を出版。1949年7月第一次文芸代表大会には準備段階から参加する。解放後、中央文学研究所副秘書長になる。しばしば農村を訪れ農業合作化の実状を調査、創作に役だてた。短編集『一個知識青年下郷的故事(ある知識青年の下放物語)』(1950)、『活影子(生きている影)』(1950)、『正月新春』(1953)、『春種秋収(春に種をまき秋に取り入れる)』(1955)、『買牛記』(1958)、『公社的秧苗(おうびょう)(人民公社の若者たち)』(1959)、『太陽初昇的時候』(1959)、『第一戸社員(最初の公社員)』(1964)等のほか、中編『水滴石穿(せきせん)』(1957)、長編『東方紅』上下2巻(1963)、児童文学集『雪地開紅花(雪の中に咲く赤い花)』(1951)、『紅領巾(ホンリンチン)星星(赤いネッカチーフの星たち)』(1959)、民間故事集『借米還米(米を借りたり返したり)』(1950)、『屯荘泉水見青天(村の泉に映った青空)』(1959)、『新伝説録』(1960)等の著作がある。「文化大革命」中は残酷な迫害に耐え抜く。「文革」後、名誉回復されて湖南省文連(文学芸術界連合会)主席となり、『康濯近作』(1980)、『康濯小説選』(1984)などが刊行された。

[伊藤敬一]

『中日文化研究所編・訳『現代中国小説集』(1952・啓文館)』『黎波監修、倉石武四郎訳『現代中国文学全集第15巻 人民文学篇』(1956・河出書房)』『倉石武四郎他訳『世界少年少女文学全集第2部12 東洋編』(1957・東京創元社)』『五木寛之他編『世界文学全集46 世界中短編名作集』(1979・学習研究社)』

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