ここでは中国における人民公社の成立と変遷,特徴,構造,理念と評価について述べる。
中国の農村では,1949年の解放後,土地改革,互助組,初級合作社,高級合作社を経て58年に人民公社が誕生した。これは,1957年秋から58年春にかけて農村での大規模な水利建設,土壌改良などの農地基本建設が実施されたが,その際,従来の高級合作社の範囲では労働力,資材等を調達できないために誕生したものである。成立当初の人民公社は1公社当り平均農家数4600戸であり,58年12月末までにはほぼ全農村に設立された。その後,人民公社は当初の一級所有制から1959年8月の中国共産党8期8中全会で生産大隊を計算単位(採算の基本単位)とする所有制へ,さらに62年以降は生産隊をもって計算単位とする三級所有制が確立された。以後紆余曲折を経ながらも人民公社は存続してきたが,中共11期3中全会(1978年12月開催)以降農業政策が変更され,農村で生産責任制が導入されたうえ,人民公社の〈政社合一〉を解体して郷政府と生産組織へ分離する政策がとられた。そのために,1984-85年ころに人民公社は解体した。ここでは公社成立以降解体以前までのそれを扱う。
人民公社は第1に〈政社合一〉を特徴とする。すなわち行政組織と生産組織の一体化したものであり日本流にいえば村役場と農協が結合したものといえる。第2に農業を行い工業企業を経営するほか商業も営み,学校(主として小学校,初級中学校)をもち,民兵組織もあった。その上医院などの医療施設も経営した。つまり人民公社は〈工・農・商・学・兵〉を結びつけた総合的な単位であった。第3に人民公社の組織は普通,公社・生産大隊・生産隊からなる〈三級所有制〉をとっていた。第4に〈一大二公〉といわれ,高級合作社より規模が大きく社会化・集団化の程度も高い。
(1)三級所有制(図参照) 人民公社は工場,大型農業機械等をもち生産大隊を平均13個集めた規模であり,生産大隊は中型農具,工場等を所有していた。生産隊は昔の自然集落で平均20~30戸の農家からなり,労働力,土地,農具,役畜などを所有していて集団で農業生産を行った。このほかに農家は自留地をもち余暇を利用して耕作を行った。これら三級所有制各レベルの収入状況は表1のとおりであった。人民公社の指導機構は人民公社管理委員会(ある時期は人民公社革命委員会)で,委員会の下に生産建設,財政,食糧,民政,文化,教育,衛生,治安,民兵などの諸部門が設けられていた。
(2)生産隊 人民公社の基本的な計算単位は生産隊であり,これを単位に生産計画をたて集団労働を行い収入を分配した。生産隊は農業を行って収入を得るが,収入から生産費,管理費を引いた純収入を税金(主に農業税),公共積立金,公共福祉金,公社員がうけとる労働報酬などに分配した(表2)。農業税は国家へ納入され税額が固定化されているために収入が増加すれば農業税の収入に占める比率は低下する。公共積立金は,公社が工場を建設したり,農業機械を購入したり,農地基本建設を行うのに使用された。公共福祉金は生活のなりたたない老人,病弱者,孤児,寡婦,身障社員の生活補助等に使用された。公社員の所得は集団労働によって得た報酬と自留地からの収入より構成されるが,公社員1人当り年収の平均は1977年65元,78年74元,79年83元であった。しかるに集団より得る収入では全国の2~3割を占める公社員の収入が50元以下であり,食べるだけで精一杯といってよかった。他方,都市周辺の人民公社や社隊企業(人民公社,生産大隊の経営する企業)などが発達しているモデル公社の場合は所得も多く,農村では豊かな公社と貧しい公社の差は大きかった。
(3)社隊企業 1980年末では社隊企業数は143万,労働者3050万,総生産額614億元となった。製品としては農機具,人民の生活に必要な製品,都市の大工業のための製品,輸出品等である。これら社隊企業は農業生産の需要をみたすために作ったものが多く,自分で資金を調達し資材もありあわせの物を利用して建設した企業が多かった(表1)。なお,社隊企業はその後発展し,現在では郷鎮企業(村営企業)と呼ばれ,中国の工業企業の重要な一環を担っている。
人民公社のめざす理念とは,〈農村がしだいに工業化する道,農業における集団所有制がしだいに全人民所有制に移行する道,社会主義の“労働に応じた分配”からしだいに共産主義の“必要に応じた分配”に移っていく道,都市と農村の差,工業と農業の差,頭脳労働と肉体労働の差をしだいに縮小し,ついには消滅する道,および国家の対内的機能をしだいに縮小し消滅させる道〉(〈人民公社のいくつかの問題についての決議〉1958年12月)で示されていた。この理念はその後プロレタリア文化大革命で再度追求されたが,現実は理念どおりに実行されなかった。それゆえ最後に人民公社の功罪をあげれば,肯定的側面では水利建設で代表される農地基本建設において果たした役割は大きい。水利は中国農業にとって決定的意義をもつ。人民公社員の大規模な動員なしにはそれは不可能であったし,人民公社成立に伴う労働蓄積の効果は大である。とくに,1959,60,61年の自然災害の被害をいくらかでも食い止めた点等が評価できる。否定的な側面としては〈政社合一〉の原則が指摘される。人民公社は英語で〈People's Commune〉とよばれるとおり住民の自治組織であるコミューンを意図して組織された。その源泉はパリ・コミューンやソ連のコムーナ(コルホーズ)であるとしても,やはり中国独自の創造の産物であるといえるし,大同思想の影響を受けているとの説もある。しかし現実は上層部に権力が過度に集中されすぎ,〈政社分離〉された。また〈三級所有制〉に関しても生産隊の自主権が保障されていないとの批判もあった。総じていえば公式的には中共11期3中全会以降,人民公社に対して否定的評価がなされてきた。
執筆者:斉藤 節夫
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1958年に創設された中国農村の行政・経済機構。農業集団化に成功した中国は、1958年なかばごろから従来の農業生産協同組合を合併させ、工業、農業、商業、学校、民兵の各組織を含み、またいままでの郷(ごう)政府のもっていた行政機能をもあわせもつ人口数万にも達する一大コミューンをつくり始めた。毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の「人民公社はすばらしい」ということばにも励まされ、わずか1、2か月のうちに全国99%の農家が参加する人民公社化運動が展開された。「一大二公」(規模が大きくて公共的)が理想とされ、食事の無料供給を行う「公共食堂」が設けられたり、さらに一部の地域では公社規模での所有、管理、分配が行われた。
しかし1959~1961年の自然災害(それには公社化が引き起こした人災という面もあった)と、それによる農業、農民の疲弊の結果、人民公社制度は再編を余儀なくされた。1961年以降、最末端単位である20~30戸からなる生産隊を基本単位とし、そこが土地を集団所有するとともに、生産・分配の意思決定権をもち、その上の生産大隊が比較的大型の資本を有し、さらに公社が灌漑(かんがい)設備や大型トラクターといった大規模な資本を所有・管理するといった「三級所有制」ができあがった。また、この人民公社体制のもとで、農民は基本的医療、教育、あるいは生活を保障される体制にはなってきた。
農民は生産隊の集団耕作に参加し、各自労働力の質と作業種ごとに決められた労働点数を記録し、その年の収益を各人の労働日(1労働日は通常10点)に応じて分配する。ただし、収穫の変動が激しく、しかも政府により農産物価格や原材料価格を決められているために、1労働日当りの単価は低く、しかも変動が大きい。それを補うのが、耕地の5%を限度として各農家に経営と生産物の処分がゆだねられた自留地による所得であった。
機構としての公社制度をみると、公社の幹部は上級の行政単位である県から任命され、また中国の他の機構と同様に、公社の運営は実質上公社の党委員会が実権を握っていた。しかし末端の生産隊や生産大隊の幹部は、比較的民主的に成員が選出していた。
1976年の「四人組」失脚以後、それまでの人民公社制度の非効率性や国家による干渉が批判され、個々の農家の生産意欲を刺激するために、自留地の拡大とともにさまざまな請負耕作制、とりわけ農家ごとの請負制の普及が図られ、農業の脱集団化が進められた。さらに1982年の憲法において、1958年以前の郷政府制が復活して、公社から行政機能がなくなり、それとともに人民公社の看板が下ろされ、名実ともに人民公社は解体したといえる。全国に5万6000あった人民公社は、末端の行政組織である、郷政府(3万4100)、鎮(ちん)政府(1万4100)に変身した。これら行政政府や農民が所有、経営する企業(郷鎮企業)は、1970年代末からの改革・開放後、中国の市場経済化の推進役となっている。企業数は2000万社を超え、2007年末の従業員数は1億5090万人である。
[中兼和津次]
『福島正夫著『人民公社の研究』(1960・御茶の水書房)』▽『嶋倉民生・中兼和津次編『人民公社制度の研究』(1980・アジア経済研究所)』▽『近藤康男・阪本楠彦編『社会主義下甦る家族経営』(1983・農山漁村文化協会)』▽『日中経済協会編・刊『人民公社解体下の中国農業と農業協力』(1984)』▽『楊勲・劉家瑞著、杉野明夫監訳『中国農村改革の道――人民公社解体と請負制』(1989・大阪経済法科大学出版部)』▽『丁抒著、森幹夫訳『人禍 1958~1962――餓死者2000万人の狂気』(1991・学陽書房)』▽『渡辺利夫編『中国の経済改革と新発展メカニズム』(1991・東洋経済新報社)』▽『上野和彦編著『現代中国の郷鎮企業』(1993・大明堂)』▽『中村則弘著『中国社会主義解体の人間的基礎――人民公社の崩壊と営利階級の形成』(1994・国際書院)』▽『杉野明夫著『中国社会主義の再生』(1995・大阪経済法科大学出版部)』▽『小林弘二著『20世紀の農民革命と共産主義――中国における農業集団化政策の生成と瓦解』(1997・勁草書房)』
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1958年に設置された中国の農村基層組織。82年に廃止が決定された。1950年代の中国で進められた農業集団化の過程で,58年の大躍進期に高級生産合作社を統合して農村に設けられたのが人民公社である。その特徴は,農業生産組織であるばかりでなく,流通,分配の主体をもなす社会組織であり,また郷(ごう),鎮(ちん)の行政事務を管理する政社合一の組織でもあったことである。さらにその内部組織は,生産隊を基本採算単位とし,公社,生産大隊,生産隊からなる三級所有制をとった。しかしこうした公社内では農工業生産力は停滞し,社員の生活水準も低いレベルに止まっていた。そこで70年代後半安徽(あんき)省で戸別農家請負制が導入されるや,人民公社は急速に解体していった。そして82年憲法によって人民公社の廃止が決定され,農村の行政機能は郷人民政府が持つこととなり,農業生産は農家の単独経営に任されるようになった。
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…南方には華北と華中を区切る桐柏・大別山地が横たわり,これらの山脈を横切る武勝,平靖,黄硯の三関は義陽三関と呼ばれ,古来中国が南北に対立するときは常に争奪の目標となった軍事上の要地である。河南省南部における経済の中心で,1957年には全国に先駆けて大型の農業生産協同組合を組織し,人民公社を生み出すきっかけとなった。【林 和生】。…
…党の路線については〈2本足〉の方針,すなわち工業も農業も,大都市も中小都市も,大工場も中小工場も,先進技術も在来技術も,いずれをも発展させてゆこうという方針が採択された。社会制度における顕著な変化は人民公社化である。それまでは,農村組織はソ連のコルホーズ型の高級合作社を主とする考えであった。…
…外国から入ってきたものは,〈洋法〉)による小型高炉が全国いたるところに作られ,その火が中国の空を焦がした。また,農業では,58年の夏から翌年の春にかけてのわずか半年間に,全国に74万余りあった高級農業生産協同組合(平均160戸)が2万4000余りの人民公社(平均5000戸)に改組され,〈政社合一〉の新しい権力機構は,共産主義の入口にあるものとされた。かくして,〈総路線〉〈大躍進〉〈人民公社〉の〈三本の赤旗〉が,中国を社会主義から共産主義へ導く方向として確定され,毛沢東の過渡期社会のイメージがまとまった像を結んだ。…
※「人民公社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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