延岡城跡(読み)のべおかじようあと

日本歴史地名大系 「延岡城跡」の解説

延岡城跡
のべおかじようあと

[現在地名]延岡市本小路・東本小路・天神小路・桜小路

五ヶ瀬川下流部に開けた沖積平野に孤立する独立丘陵(城山、標高五三メートル)を利用して築造された近世の平山城。高橋元種によって慶長八年(一六〇三)に築城され、延岡藩歴代藩主が居城した。城地は土持氏が領したあがたのうち岡富おかとみ郷にあり、初め県城、藩名を県藩と称した。明暦二年(一六五六)に有馬康純が今山いまやま八幡宮(蓬莱山八幡宮とも)に寄進した梵鐘(内藤記念館蔵)に「日州延岡城主有馬左衛門佐」とあるのが延岡の地名の初見で、有馬氏時代に延岡城と改称されていたようである。しかし「徳川実紀」には元禄五年(一六九二)に有馬氏転封後、三浦明敬が入封した際に県を延岡と改めたとある。また亀井かめい城とも称した。当城に入った延岡藩主は高橋・有馬両氏が外様大名で、その後は三浦氏・牧野氏・内藤氏と譜代であった。

〔高橋氏時代〕

天正一五年(一五八七)島津氏を屈服させた豊臣秀吉の九州仕置により、島津氏領であった「県・三城・宮崎」の地は高橋元種に与えられた(「勝部兵右衛門聞書」旧記雑録)。県は松尾まつお(県城)に拠る土持氏が、三城(塩見城・日知屋城・門川城)も土持氏が、宮崎(城)は宮崎地頭上井覚兼がそれぞれ領していた。秀吉から封地を与えられた元種は豊前国香春岳かわらだけ(現福岡県香春町)から松尾城に入った(延陵世鑑)。同一六年八月四日の日向国知行方目録によれば、元種領は土持つちもち院三〇〇町以下高千穂たかちほ(現高千穂町)門川かどがわ(現門川町)塩見しおみ日知屋ひちや(現日向市)山陰やまげ(現東郷町)神門みかど(現南郷村)田代たしろ(現西郷村)宇納間うなま入下にゆうした(現北郷村)穂北ほきた清水きよみず調殿つきどの(現西都市)、岡富・南方みなみかた池内いけうち(現宮崎市)塚原つかばる本庄ほんじよう(現国富町)など計一千七八七町であった。このうち高千穂地方の豪族三田井(大神)親武は元種に従わなかったため、同一九年から三田井親武の拠る向山むこうやま(現高千穂町)を攻撃して慶長初年頃までには鎮定させた。文禄元年(一五九二)朝鮮出兵に従軍した元種は、慶長三年帰国の際、多くの朝鮮人を連帰り、そのなかの陶工たちが庵川いおりがわ(現門川町)で陶窯を開いたという。慶長五年の関ヶ原の戦には最初西軍に属したが、のち親族の秋月種長(高鍋藩)・相良長毎(肥後人吉藩)とともに東軍に転じ本領を安堵された。この間飫肥領主伊東氏の留守将稲津重政が元種の飛地宮崎城を攻め、城代権藤種盛父子を滅ぼし領地としたが、翌六年八月徳川氏の裁定により再び高橋氏に返された(延陵世鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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