建仁寺門前(読み)けんにんじもんぜん

日本歴史地名大系 「建仁寺門前」の解説

建仁寺門前
けんにんじもんぜん

[現在地名]東山区大和やまと町・亀井かめい町・博多はかた町・小松こまつ町・井出いで町・六軒ろつけん町・上柳かみやなぎ町・下柳しもやなぎ町・北御門きたごもん町・山城やましろ町・ひがしかわら町・轆轤ろくろ町・宮川筋みやかわすじ六町目ろくちようめ八町目はつちようめ〉・西にしかわら町・山田やまだ町・森下もりした町・田中たなか町・金屋かなや町・西御門にしごもん町・池殿いけどの町・三盛みつもり町・門脇かどわき町・多門たもん町・竹村たけむら町・あたらシ町・興善こうぜん町・小島こじま町・弓矢ゆみや町・薬師やくし町・音羽おとわ町・山崎やまざき町・大黒だいこく町・辰巳たつみ町・玉水たまみず町・上田うえだ町・月輪つきわ(建仁寺門前は、正確には建仁寺領の諸町に限定される。しかし、この地域は洛中町組に属した山崎町・大黒町・音羽町、南禅寺など知行・所領主の異なる町すなわち弓矢町・薬師町・薬子辻子などが入組む。また町々の形成も切離せないので、「建仁寺門前地域」として一括して記す)

古代愛宕おたぎ郷の位置にほぼあたる。西は宮川筋を隔てて鴨川に臨み、南は五条橋東、東は八坂やさか、北は祇園ぎおん村に接する。

古来六波羅ろくはらの称があり、一〇世紀の六波羅蜜寺の創建、平氏政権の六波羅邸、つづいて鎌倉幕府の六波羅探題たんだい南・北庁が設けられ、また建仁寺の建立もあって、洛外鴨東おうとうにありながら殷賑の市街をなし、白河六勝しらかわりくしよう寺寺院街(現左京区)とともに平安京の川東への伸長を象徴する街衢となった。しかし元弘・建武(一三三一―三六)の戦火に焼かれ、六波羅蜜寺・建仁寺寺域を除いて一帯は急速に荒廃した。やがて耕地に戻り、市街化の進行した江戸時代においてなお「六波羅廻り」の称をとどめた耕作地域が所在した。「坊目誌」は六波羅廻りについて「興善町・小島町・竹村町・梅林町・遊行前町に属する畠地の大字なり。明治三十三年松原西大谷間、道路開通以来漸次開拓して家居を作り、耕地を減ぜしが、大正元年東山通となるを以て、全土宅地に編入し、僅かに安祥院に此字地を存するのみ」と説く。

江戸時代、この地域は大半が建仁寺領で占められ、建仁寺門前の称でよばれた。先述の六波羅廻りをまた建仁寺廻りとも称するのは、その故である。ただし幕末の所領関係を記す「旧高旧領取調帳」は、六波羅廻りと建仁寺廻りを別のものとし、前者を清水寺領、後者を建仁寺領としている。この区分によれば、六波羅廻りは清水寺門前に相当し、建仁寺廻りが建仁寺門前及び建仁寺廻りをさすようである。

元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に「高百拾四石弐斗六升六合 建仁寺門前」とあり、高は時代が下るにつれて若干の増加をみるが、隣接する祇園・清水・五条橋東などと連動して市街化の動きが著しく、宝暦期(一七五一―六四)には六波羅廻りの一部を除き、ほぼ全域が町家地に繰入れられるに至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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