清水寺門前(読み)きよみずでらもんぜん

日本歴史地名大系 「清水寺門前」の解説

清水寺門前
きよみずでらもんぜん

[現在地名]東山区清水〈一丁目―五丁目〉

江戸時代以降、松原通の東端、清水寺参道の一帯に展開した町地。元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に「清水寺門前」として高一一九・二一六石が記されるが、享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳には所見がなく、天保郷帳に再び「清水寺門前」と出る(高は享保郷帳と同じ)。また「旧高旧領取調帳」に六波羅廻り清水寺領として一〇九・一三石が挙がるが、これは清水寺門前領をさすか。

一町目より五町目までの五町よりなる。一町目は、清水坂と清水新道の合する付近。現状では清水寺を含む。二町目は、清水坂に三年坂さんねんざか及び五条坂が交わる辺りをさす。三町目は二町目の北、三年坂より八坂道やさかみちに向かう一帯。四町目は二町目の西、清水坂の沿道を軸に更にその南方を広く含む。五町目は現東大路通以西、松原通以南の一画をいう。このうち四町目までが古町と思われ、京都御役所向大概覚書に正徳期(一七一一―一六)の状況として「清水寺門前 四町」と記される。また「改正増補京羽二重大全」(延享二年刊)には、「享保九年 五条坂建家 松原通 畑地へ地替有之 清水寺門前四町目」とあり、五条坂に面した一画が開発されて、清水坂沿道の四町目に加えられたことが知られる。

開町は江戸初期にさかのぼり、寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に、「清水門前町」の記載をみる。次いで延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)には、清水寺門前の称で所見し、「壱町目・弐町目・三町目・四町目」の別が記されている。更に正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)には、「弐拾九軒 清水寺門前壱町目、三拾九軒 同 弐町目、四拾壱軒 同 三町目、五拾三軒 同 四町目」と町ごとの家数がみえ、これを他の洛外町と比較すると、十分に町並が整っていた。しかもその町並はいわゆる茶屋街で、「元禄覚書」に茶屋数「百六軒 清水」とあり、これは茶屋町の代表格である祇園町ぎおんまちの七一軒を上回り、同史料中最高である。茶屋の町別の数は、京都御役所向大概覚書に正徳期の様相として、「三拾九軒 清水三町目、弐拾九軒 右同所弐町目、四拾三軒 右同所四町目」とある。このうち四町目には、「宝永四亥年十月十八日、不届有之。八軒減、除之」と注記されているから、もとは五一軒だったわけで、先引の家数五三軒を参照するなら、まず全町茶屋であったとみて差支えない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報