北御門町(読み)きたごもんちよう

日本歴史地名大系 「北御門町」の解説

北御門町
きたごもんちよう

東山区大黒町通松原下ル一丁目

大黒町だいこくまち通に位置。明治元年(一八六八)北御門町・南御門町の二町を合するまでは「宮川筋を東へ四すじ目、松原下ル、北御門町 同町、南御門町」(宝暦一二年刊「京町鑑」)とあるように、南北に二分されていた。

寛永版平安城東西南北町並之図以来、地図上には「北ミカド」のみがあり、これが地図上の省略でなかったことは、寛永一四年(一六七三)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)をはじめ、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)にも、北御門町とだけしかないことからも明らかである。正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)に至って、「三拾三軒 同(建仁寺南門前)北御門町」とは別に「同(建仁寺)新門前」に西御門町が派生し、その後初めて南御門町の分立をみたもので、もともと南北相対していたわけではなかった。


北御門町
きたみかどちよう

[現在地名]奈良市北御門町

川上かわかみ村の西南、今在家いまざいけ町の東にあり、「奈良曝」に北御門町は「川上村廿軒役」と記し、川上村(現川上町)のうちから東大寺の北大門近傍が町となった。

仁平元年(一一五一)四月の僧教厳家地相博券(京都大学所蔵東大寺文書)に、敷地五間は「東大寺北御門」の東辺にあるとみえ、この地はもと伴寺領内荒野空閑地であったが、教厳が住房建立のため買取り、三間二面と小庇屋一宇があると記す。もとは東大寺川上庄の一部であったと思われる。北御門郷は中世東大寺七郷の一で、応安六年(一三七三)頃の北御門在家人交名(東大寺文書)によると在家人は二七人で、神人・公人・禰宜・公事足などがいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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