弁城村(読み)べんじようむら

日本歴史地名大系 「弁城村」の解説

弁城村
べんじようむら

[現在地名]方城町弁城

現方城町の西部、彦山川の中流右岸に位置し、村内を同川支流の弁城川が流れる。北西上野あがの(現赤池町)、西から南西は彦山川を挟んで赤池あかいけ(現赤池町)金田かなだ(現金田町)、東は下伊方しもいかた村・はた村、北東福智ふくち山系を境として企救きく道原どうばる(現北九州市小倉南区)に接する。中世金田庄に含まれていた。元亨元年(一三二一)四月八日の正二位源某譲状(青柳種信資料/鎌倉遺文三六)によると、「金田庄内弁城」と志生田村(鋤木田村、現赤池町)の領家職などが壬生家庶流の従三位源頼言に正二位源某(頼言の父雅憲か兄雅康)から譲与された。同年四月一五日の北条時直書下(二階堂文書/鎌倉遺文三六)では、弁城のほか草場くさば吉松よしまつ(現赤池町)神崎こうざき(現金田町)は前年は請所であったので問題はないが、今年の所務は宇佐宮造営料米を除いて決算を遂げるよう、金田庄直人らに命じている。かつての当地は福智山の山岳修験の行場にあたり、谷奥の岩屋いわや権現(元宮)境内には建武二年(一三三五)一〇月一三日の年紀をもつ磨崖梵字曼荼羅(県指定史跡)がある。

応安五年(一三七二)七月の隈元政幸軍忠状(青柳種信資料/南北朝遺文(九州編)五)によれば、弁城村領家の土御門鶴寿丸の代官隈元政幸は探題今川方に属して筑後・肥前各地を転戦している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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