弥十郎町(読み)やじゆうろうまち

日本歴史地名大系 「弥十郎町」の解説

弥十郎町
やじゆうろうまち

[現在地名]相川町弥十郎町

上町かみまち台地にあって、広間ひろま町の奉行所(陣屋)の正面に接し東西に細く連なる町。南は四十物あいもの町、北側の住家裏手は北沢きたざわ川の深い谷川が流れる。東は丁字形の小路を境に夕白ゆうはく町・勘四郎かんしろう町、西端は陣屋前の道路と交差するが、内堀を挟んで通りの正面は陣屋の大御門となる。北側の裏手外れには天満宮別当寺の時宗大願だいがん寺があった。町名の由来は、山師丹波弥十郎が抱えの銀山従事者と居住したことによる。「佐渡風土記」によれば、大久保長安が佐渡支配中に、銀山の相次ぐ新坑を開発するため、両度にわたって諸国から山師を呼集めて御直山を稼行させた。慶長九年(一六〇四)に来島した三六人を一の山師、同一八年の三七人を二の山師とよんだが、丹波弥十郎は一の山師の一人。


弥十郎町
やじゆうろうまち

[現在地名]福井市足羽あすわ一丁目

上立屋かみたちや町から南へ折れた町。北から小寺こでら町・松尾まつお町・弥十郎町、西に風尾かざお町の小町が相隣接する。弥十郎町は正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳に「弐拾七間、折廻シ、但道幅壱間半」とある。天保三年(一八三二)の石場組家帳(上田家文書)によると家数一〇。弥十郎町には安養あんよう寺、京都妙蓮みようれん寺末妙観みようかん寺、京都妙覚みようかく寺末妙永みようえい寺、京都妙顕みようけん寺末妙国みようこく寺が並んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む