安養寺跡
あんようじあと
現京都市右京区の太秦広隆寺南西の地にあった寺。「広隆寺来由記」に秦長倉の建立、初め徳願寺といい、嵯峨天皇が安養寺と改めたと記される。一方、寛永元年(一六二四)の山城国葛野郡安養寺村由緒(石原家文書)は、「推古天皇二十四年丙子のとし七月十五日、大唐国新羅国乃大王より御たけ二尺と三尺三寸との薬師如来御尊像二躰を推古天皇へ献上仕奉りけれハ、推古天皇太子へ御勅定有て、二尺御尊像ハ広隆寺の御本尊と被成、川勝を広隆寺之檀那と定めさせられ、また三尺三寸の御尊像は太子より川勝へ守り本尊ニ宣(ママ)ふやうは、安養堂は汝の住処に近けれハ今より安養堂ハ汝の持仏堂といたすへしと仰られける、川勝謹て難有く御請申上、則大藪乃中に安養堂を建立有て、竹林山安養寺と改、右薬師如来を本尊に安置す、則右薬師守護の号令を定られて日々夜々に眷属二十人を薬師守護の勤番役の仲間と定められは則今の仲間中と言ふハ右勤番役の事なり」と記し、新羅より贈られた薬師如来を本尊とする大堂を秦河勝が建立したとしている。
安養寺跡
あんようじあと
[現在地名]宇部市大字棚井 安要寺
厚東川の右岸、棚井の中央部、安要寺にあった寺院。
「地下上申」に「安養寺と申旧跡御座候所ニ八万塔と申ちいさき五輪土中ニ埋ミ居申候事」とある。「注進案」によれば小野村の市之坂にある浄土真宗の青雲山安養寺の寺伝として
<資料は省略されています>
とある。
安養寺跡
あんにようじあと
[現在地名]益城町福原 杉ノ久保
福原川の中流の谷間にある。雑華錦語集(「国誌」所収)に弘治三年(一五五七)一二月二四日の安養寺棟札銘が記され、天文二三年(一五五四)一二月七日に火災で焼けたため再建している。大檀那は阿蘇大宮司宇治惟豊。今日、地元で安養寺旧蔵の仏像を管理している。木造薬師如来立像は素木仕上げで、高さ一三九・五センチで南北朝―室町時代初期のものとみられる。右脇侍の木造菩薩形立像は一木造・玉眼・素木仕上げで高さ一三〇・五センチ。
安養寺跡
あんようじあと
[現在地名]山鹿市津留 今寺
彦岳の東山麓裾部に位置する。「国誌」によると長月山と号し、禅宗、安野氏の建立という。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「安養寺観音」とあり、国道三号より五メートルほどの高所に小堂が建ち、旧本尊の観音像が安置されている。伝承では今寺村の村名は、他の廃寺に対し当寺を今寺と称したことによるという。周囲の地形などから往時の伽藍配置が推測され、小堂の部分に本堂、下段左方に庫裏、右方に放生池があり、国道付近に山門があったと思われる。旧境内地には多数の石造物残欠が所在する。鎌倉末期と推定される宝篋印塔の隅飾部分、永禄五年(一五六二)銘の板碑、ほかに室町期と推定される五輪塔残欠二十数基分や宝塔台座部、一石五輪塔などがある。
安養寺跡
あんようじあと
[現在地名]穴水町岩車
奈古司神社東側通称堂の上付近が旧跡である。昔この付近に日吉山王二一社が勧請され、天台宗安養寺は社僧の本坊として七堂伽藍が建っていたという。「能登名跡志」には「今も寺の境内に堂の上など地名あり。五輪石塔等其儘あり」と記されるが、現在旧跡をとどめるものはない。古老はかつて珠洲焼破片や宋銭などが出土したと伝える。中居南の日吉神社蔵の享和三年(一八〇三)の日吉山王権現座主宝物目録改によると、「日吉山安養寺当番 医王院龍秀・観音院看詰・月光院尭道・蓮台院無住」と記され、当番院をもっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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