影村(読み)かけむら

日本歴史地名大系 「影村」の解説

影村
かけむら

[現在地名]日南町笠木かさぎ

南東流して笠木川に注ぐ小支流鉄穴内かんなうち(影川ともいう)沿いに位置し、水田南西大草おおくさ(九一六・七メートル)山麓に階段状に広がる。東は日谷ひたに村。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「カゲ」と訓ずる。現在は懸日谷かけひたにといい、日谷村などの一部をも含む地となっている。拝領高は三一石余、本免は五ツ八分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五一石余、竈数一〇。安政四年(一八五七)の切畑帳(日南町役場蔵)によると切畑一町三反余の高二石余、物成一石余。「伯耆志」では林四町余、家数一〇・人数五〇、産物はアコメ砂鉄。

影村
かげむら

[現在地名]落合町影

東流する当摩たいま川を挟んで日名ひな村の南、(五二六・三メートル)北麓に位置し、東は高屋たかや村。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳(肥塚家文書)にみえる「かけ村」にあたるか。正保郷帳では田高五七石余・畑高三一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高四四石余・開高四石余。

影村
かげむら

[現在地名]総社市影

下倉したぐら村の北、高梁たかはし川右岸に位置し北部影谷かげたに川が東流する。寛永備中国絵図に陰村とあり高九六石余、山崎家治先知とある。正保郷帳では影村とあり松山藩領。元禄郷帳に枝村としてほこり村を記す。同村は寛永備中国絵図では高三一石余で山崎家治先知。正保郷帳では松山藩領で野々迫ののさこ村を枝村として記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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