朝日日本歴史人物事典 「志太義広」の解説
志太義広
平安後期の武将。源為義の子。本名義憲(義範)。常陸(茨城県)志太郡に住して,志太三郎先生と称した。甥の源頼朝が鎌倉に拠って東国に支配圏を拡大していくにつれて頼朝との対立が深まり,寿永2(1183)年2月,頼朝攻撃をはかった。しかし,はじめは義広に同意する姿勢をみせた小山朝政が下野(栃木県)野木宮で義広を襲い,義広は敗北,信濃(長野県)の木曾義仲を頼った。のち義仲と共に北陸道を進んで同年7月入京,信濃守に任ぜられたが,元暦1(1184)年1月,頼朝派遣の義経らと宇治・一口方面で戦って敗れ,以後行方不明。<参考文献>石井進「志太義広の蜂起は果して養和元年の事実か」(『鎌倉武士の実像』),『茨城県史/中世編』
(新田英治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報