惟宗氏(読み)これむねうじ

改訂新版 世界大百科事典 「惟宗氏」の意味・わかりやすい解説

惟宗氏 (これむねうじ)

平安時代,明法道(律令学)を家業とし,著名な明法家が輩出した氏族。もと秦公(はたのきみ)姓で,讃岐国香川郡を本貫地とし,秦始皇帝12世の孫功満王の子融通王の苗裔と称する渡来系氏族。9世紀なかばに平安京に貫を移し,883年(元慶7),同族の秦宿禰,秦忌寸とともに惟宗朝臣となる。直宗(なおむね)・直本(なおもと)の兄弟があいついで明法博士に任じて以後,直宗の子と推定される善経(よしつね),直本の子公方(きんかた),公方の子と推定される致明(ゆきあき)・公平(きんひら),致明の子とみられる允亮(ただすけ)・允政(允正)(ただまさ)・輔政(すけまさ)など,いずれも家学を伝える。とくに直本は《律集解》《令集解》の,公方は《本朝月令》の,允亮は《政事要略》の著者として名高い。允亮・允政兄弟は999年(長保1)ころ,〈律令の宗師〉を意味する令宗(よしむね)朝臣の姓をたまわった。しかし以後は,検非違使の下級官人などに一族の名がみられるにすぎない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「惟宗氏」の意味・わかりやすい解説

惟宗氏
これむねし

883年(元慶7)秦宿禰永原(はたのすくねながはら)、秦公直宗(きみなおむね)、秦忌寸永宗(いみきながむね)、秦忌寸越雄(こしお)、秦公直本(なおもと)ら男女19人に惟宗朝臣(あそん)を賜ったことに始まる渡来系氏族。秦始皇帝(しこうてい)12世の孫、功満王(こうまんおう)の子、融通王(ゆうずうおう)の苗裔(びょうえい)で、応神(おうじん)朝に来日したと自称する。うち直宗・直本兄弟は877年讃岐国(さぬきのくに)香川郡から左京に移貫した者だが、永宗は山城の秦氏。直宗は883年には明法博士(みょうぼうはかせ)であり、この一族からは直宗の子と推定される『延喜格式(えんぎきゃくしき)』の撰者善経(よしつね)、直本の子で『本朝月令(ほんちょうげつれい)』の著者公方(きんかた)、その子孫の允亮(ただすけ)、允正(ただまさ)、道成(みちなり)など、平安中期に一流の明法博士を輩出した。また永原の子孫には具範(とものり)、孝言(たかとき)などの文人歌人や、俊雅(としまさ)とその子孫のように医道で知られた人々もいる。なお1088年(寛治2)国任(くにとう)の明法博士任命を最後に、惟宗氏から明法博士に任じられる者は後を絶った。

[柴田博子]

『利光三津夫著『続 律令制の研究』(1988・慶応義塾大学出版会)』

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世界大百科事典(旧版)内の惟宗氏の言及

【宗氏】より

…鎌倉時代から明治維新まで対馬などを支配した北九州の豪族,大名。出自については平知盛後胤説,対馬との関係では1245年(寛元3)宗重尚の阿比留(あびる)氏討伐説が流布していたが,現在は両説とも後世の捏造(ねつぞう)で,出自は大宰府府官惟宗(これむね)氏の武士化したものとされる。対馬との関係で確実・最古の人物は,1274年(文永11)のモンゴル襲来時に対馬で戦死した対馬国地頭代の宗資国である。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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