日本歴史地名大系 「惣曲輪跡」の解説
惣曲輪跡
そうくるわあと
佐倉城三の丸の東方と北方に位置。延享三年(一七四六)の堀田正亮の佐倉入封当時には惣曲輪と称されており(「匠庁録」堀田家文書)、当地から本丸にかけてが城内にあたる。台地上と低地に佐倉藩の諸施設と侍屋敷があった。以下、江戸時代の様子は各種絵図類によって記述するが、土井利勝時代は佐倉城絵図(鷹見家蔵)、堀田正信時代は明暦三年(一六五七)の佐倉屋鋪割絵図(佐倉厚生園蔵)、大久保忠朝時代は佐倉絵図(小田原市立図書館蔵)、稲葉正知時代は佐倉城府内之図(佐倉市蔵)、松平乗邑時代は佐倉城絵図(篠丸家蔵)、堀田正愛時代は佐倉城絵図(佐倉市史付図)、堀田正篤時代は嘉永六年(一八五三)の佐倉城下之図(成田山仏教図書館蔵)、堀田正倫時代は万延元年(一八六〇)の佐倉城実測図(佐倉史談付図)を使用した。また嘉永三年当時の畑反別、代銭、銭渡人数は堀田家中畑年貢代銭渡帳(佐倉市保管文書)によった。なお明治初年惣曲輪は佐倉城内と称され、その後陸軍省用地として官有無番地(無地名)となり、昭和二〇年(一九四五)まで陸軍の兵営・練兵場とされた。
〔広小路〕
〔天神曲輪〕
広小路の北方に位置し、台地平坦部に立地。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報