堀田正信(読み)ほった・まさのぶ

朝日日本歴史人物事典 「堀田正信」の解説

堀田正信

没年:延宝8.5.20(1680.6.16)
生年:寛永8(1631)
江戸前期の下総佐倉藩主。上野介。3代将軍徳川家光の近習出頭人堀田正盛長男。母は大老酒井忠勝の娘。慶安4(1651)年家光に殉死した父の跡を襲って佐倉10万石を領す。のち積極的な家臣団の拡大,武備の増強を企てながら,幕府への奉公誇示。外祖父の酒井忠勝からたしなめられたという。所領では「佐倉惣五郎」事件の伝承を生んだ苛酷な年貢増徴を図る。家光政権の功臣であった父の跡を継ぎ,老中が城主となるべき城にいながら,幕政に参画できない焦燥と過剰な自意識が,時代錯誤の武断的な藩政として現れた様子。万治3(1660)年将軍補佐保科正之,老中阿部忠秋に諫書を提出,幕閣の失政を非難し,自身の所領を返上して困窮の旗本を救済するよう願い,無断で帰国。改易され信濃飯田藩に預けられる。寛文12(1672)年越前小浜藩に身柄を移されるが,延宝5(1677)年密かに上洛して石清水八幡宮などに,将軍家綱の継嗣誕生を祈願したため,勝手な行動を咎められ,阿波徳島藩に預けられ,厳重に監視される。8年家綱死去の報に接し,鋏で自害し家綱に殉じた。時代の推移に対応できず,幕政に不満を持ち,家を破滅に導いた大名。<著作>『忠義士抜書』『楠三代忠義抜書』<参考文献>「佐倉藩紀氏雑録」(『千葉県史料』近世編),『佐倉市史』1・2巻,『成田市史』中世近世編

(根岸茂夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「堀田正信」の意味・わかりやすい解説

堀田正信 (ほったまさのぶ)
生没年:1631-80(寛永8-延宝8)

江戸前期の大名。通称与一郎。上野介。正盛の長子。母は酒井忠勝の女。1651年(慶安4)父正盛が将軍徳川家光に殉死したあと家督を継ぎ,下総佐倉藩主となる。60年(万治3)寛永寺の家光廟に参拝ののち幕府の許可を得ることなく佐倉に帰城し,保科正之,阿部忠秋にあて老中松平信綱を中心とする幕府批判の上書を呈出,旗本の困窮を救うためとして領地10万石余の返上を申し出た。このため,所領没収のうえ信州飯田城主脇坂安政(正信の弟)のもとへ配流に処せられた。これは,当時無許可で帰国することは明白な違法行為であり謀反にも相当する大罪とみなされたが,幕府では父正盛の功績を配慮し,正信狂気のゆえと解して寛刑に済ませたものといわれる。72年(寛文12)若狭小浜城主酒井忠直(正信の叔父)のもとに預け替えとなったが,77年(延宝5)無断で上京したため徳島城主蜂須賀綱通のもとに幽閉された。80年将軍家綱の死を聞き自殺した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀田正信」の意味・わかりやすい解説

堀田正信
ほったまさのぶ
(1631―1680)

江戸前期の下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉藩主。堀田正盛(まさもり)長子、通称与一郎。1644年(正保1)従(じゅ)五位下上野介(こうずけのすけ)に叙任、51年(慶安4)8月14日将軍徳川家光(いえみつ)に殉死した正盛の遺跡を継ぐ。著名な佐倉惣五郎(そうごろう)事件は、正信治世中のことといわれる。60年(万治3)10月、将軍家綱(いえつな)に老中松平信綱(のぶつな)を中心とする幕政批判書を上呈し、無断で佐倉へ帰国した。これにより幕府は正信狂気とし、所領を没収し弟の信濃(しなの)国(長野県)飯田(いいだ)藩脇坂安政(わきざかやすまさ)へ預けた。のち若狭(わかさ)国(福井県)小浜(おばま)藩酒井氏から阿波(あわ)国徳島藩蜂須賀(はちすか)氏に移され、ここで「忠義士抜書」などを書いたが、延宝(えんぽう)8年5月20日、家綱の死を聞いて自殺、50歳。法名忠三、江戸浅草の金蔵(こんぞう)寺に葬した。

[神﨑彰利]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀田正信」の解説

堀田正信 ほった-まさのぶ

1631-1680 江戸時代前期の大名。
寛永8年生まれ。堀田正盛の長男。慶安4年父のあと下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主堀田家第1次2代となる。万治(まんじ)3年老中松平信綱らの幕政を批判する意見書を提出,無断で佐倉に帰城。このため改易(かいえき)され,延宝8年5月20日,配流先の阿波(あわ)徳島で4代将軍徳川家綱の死に殉じた。50歳。
【格言など】正信の所領の城地をことごとく返し奉る(幕府への意見書)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀田正信」の意味・わかりやすい解説

堀田正信
ほったまさのぶ

[生]寛永9(1632).6.27. 江戸
[没]延宝8(1680).5.20. 阿波
江戸時代初期の下総佐倉藩主。父は正盛。母は酒井忠勝の娘で,正俊の兄。幼名,与一郎。慶安4 (1651) 年父の殉死後,跡を継いだ。万治3 (60) 年4代将軍徳川家綱に幕政批判の上書をして無断帰国。そのため領地没収,流罪に処せられ,配所で自害。

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367日誕生日大事典 「堀田正信」の解説

堀田正信 (ほったまさのぶ)

生年月日:1631年6月27日
江戸時代前期の大名
1680年没

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世界大百科事典(旧版)内の堀田正信の言及

【佐倉惣五郎】より

…生没年不詳。下総佐倉城主堀田正信が1660年(万治3)に改易になった事実があり,その当時領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたことは明らかである。また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。…

【佐倉藩】より

…下総国(千葉県)佐倉に藩庁を置いた藩。江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。譜代大名の入封は07年小笠原吉次(2万8000石)が最初で,以後譜代所領となる。…

【堀田氏】より

…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…

※「堀田正信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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