日本歴史地名大系 「意部郷」の解説
意部郷
おふごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。養老五年(七二一)の下総国倉麻郡意布郷戸籍(正倉院文書)は断簡であるが、記載される七〇余人のうち藤原部六六人余で、ほかは大伴部三・土師部一・占部一。藤原部は藤原宮に住した衣通郎姫(允恭天皇の大后の弟姫)の名代。また少毅大初位下藤原直白麻呂の一族があげられ、当郷の有力者とみられる。天平宝字六年(七六二)当時、邑郷(邑保郷とも、意部郷)の久須原部広島(久須波良部とも)が石山院奉写大般若経所に仕丁として出仕していたが、一二月には任務を終えて造東大寺司に返却されている(六月二一日「造石山院所公文案」・一二月二四日「奉写石山大般若経所解」正倉院文書など)。
意部郷
おぶごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報