日本歴史地名大系 「我孫子市」の解説 我孫子市あびこし 面積:四三・一九平方キロ県北部に位置し、下総台地上にある。市域の北部には利根川が流れ、対岸は茨城県取手市・北相馬(きたそうま)郡利根町。南は手賀(てが)沼に面し、対岸は東葛飾(ひがしかつしか)郡沼南(しようなん)町。西は柏市、東は印西(いんざい)市と接している。市域のほぼ中央部を東西に旧水戸道が通り、市街地の東で成田方面に至る道と分岐しており、街道沿いに家並が形成された。現在はJR常磐線より分岐した同成田線と並行して国道三五六号が通る。地名としてのアビコは安孫子・我孫子・安彦・吾孫子・阿毘古など多様な表記がみられるが、現在のところ初見とされる正和二年(一三一三)一二月二八日の尼しんねん譲状(肥後三池文書)をはじめ、中世には「あひこ」「アヒコ」などとあり、漢字表記は確認されていない。〔原始―中世〕旧石器時代の遺跡に鹿島前(かしままえ)遺跡があり、縄文時代前期では久寺家(くじけ)地区の上居村付西(かみいむらつきにし)遺跡、同中期には新木東台(あらきひがしだい)遺跡、同後晩期には下ケ戸(さげと)貝塚が知られる。古墳時代では前期の竪穴住居跡を検出した我孫子中学校校庭遺跡のほか、五世紀初頭の前方後円墳や七世紀後半の前方後方墳を含む我孫子古墳群がある。奈良時代以降、市域は下総国相馬郡に属し、「和名抄」に記す相馬郡布佐(ふさ)郷は東部の現布佐を遺称地とする。日秀西(ひびりにし)遺跡で検出された多くの建物跡は古代官営の倉庫群跡と想定され、和同開珎も出土しており、郡家の所在地である可能性が高い。日秀地区には将門(まさかど)神社が鎮座し、将門の井戸など将門伝説を伝えている。大治五年(一一三〇)相馬郡司千葉常重が私領の布施(ふせ)郷を伊勢内宮に寄進、これが相馬御厨となるが、その南限が手賀沼辺りで、市域一帯は同御厨内であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「我孫子市」の意味・わかりやすい解説 我孫子〔市〕あびこ 千葉県北西部,手賀沼周辺の下総台地および利根川沿岸低地を占める市。 1970年市制。中心市街地の我孫子は,江戸時代,水戸街道の宿場町としてにぎわった。鉄道の開通により一時寂れたが,現在,JR常磐線の複々線化,成田線への連絡によって,宅地化が著しく,湖北台団地などの大規模な住宅団地が造成されている。機械工業の進出もみられる。市域は印旛手賀県立自然公園に属している。面積 43.15km2。人口 13万510(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by