成田忠久(読み)ナリタ タダヒサ

20世紀日本人名事典 「成田忠久」の解説

成田 忠久
ナリタ タダヒサ

昭和期の教育運動



生年
明治30(1897)年9月22日

没年
昭和35(1960)年10月24日

出生地
秋田県八竜町

学歴〔年〕
東北学院専攻科卒,逓信省通信技術者講習所卒

経歴
秋田郵便局に勤務、第1次世界大戦では通信兵として出征。大正10年秋田県の浜田小学校代用教員となり、生活綴方教育運動を始める。14年秋田市で豆腐製造業を始め、その傍ら昭和4年北方教育社を創立、5年「北方教育」を創刊。9年岩手、宮城の教師と交流、10年東北6県を連ねる北日本国語教育連盟を結成、機関誌「教育・北日本」を創刊、北方性教育運動をおこし、全国的反響をよんだ。13年破産し上京、モナス社に勤める。戦後平凡社に勤務し、「綴方風土記」を編集した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「成田忠久」の解説

成田忠久 なりた-ただひさ

1897-1960 昭和時代の教育運動家。
明治30年9月22日生まれ。小学校代用教員ののち豆腐屋を開業。昭和4年北方教育社を設立,児童文集「くさかご」を創刊,翌年には「北方教育」を刊行するなど東北を中心に生活綴方(つづりかた)運動をひろめた。戦後は編集者となる。昭和35年10月24日死去。63歳。秋田県出身。通信技術者講習所卒。旧姓加藤

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「成田忠久」の解説

成田 忠久 (なりた ただひさ)

生年月日:1897年9月22日
昭和時代の教育運動家
1960年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の成田忠久の言及

【北方教育】より

…また《赤い鳥》流の文芸主義的な綴方を批判して,綴方と社会科学との結合をめざし,東北農村の地域性,厳しい自然環境とそのなかでの児童を含めた過酷な農漁業労働や貧しい生活をふまえた生活学習を展開しようとした。編集兼発行人の成田忠久を中心に同地方の綴方教師滑川道夫や佐々木昂らの同人組織として,実践記録や創作のほか,児童作品の批評,学校文集の紹介などを行い,教育のリアリズムや生活と表現の問題を論じた。北方教育社の教育改造運動はこの雑誌およびサークル活動・研究会を通じて県外グループとの交流が広がり,34年11月の北日本国語教育連盟結成の軸となるなど〈北方性教育運動〉へと発展した。…

※「成田忠久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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