1910年代に入る前後のころ以降日本に現れた,子どもの生活全体の指導を目的とする教育方法,もしくはその指導過程に生まれる子どもの文章表現の作品をいう。その方法は二つの部分からなる。(1)まず,子どもたちに自分の生活に取材した文章を自分のことばでありのままに書かせるが,そのための取材,構想,記述,推敲の各過程における,文章表現の各〈形体〉ごとの指導がある。子どもに生活綴方を書かせていくと,指導の深まりの違いに応じて〈過去形表現〉〈現在形表現〉〈総合的表現〉〈概括的表現〉などとよばれている,子ども特有の文型が段階を追って現れ,これに固有の指導方法が必要になる。これが各〈形体〉ごとの指導である。(2)こうしてできた子どもの文章(生活綴方)を文集に編集し,学習集団であると同時に生活集団でもある子どもたちの級,学年その他の日常の人間関係の場に,直接にあるいは文集交換という間接の方法でもちこむ。そして,そこに収められている生活綴方の作品を,みんなで声を出して読みあい,聞きあい,その内容を自由に討論しあう。その結果として進む子どもの認識と感性の発達,人間関係の転換などの成果は,つぎの段階の(1)の部分に循環し,子どもが生活綴方を書き,生活を表現する力に生かされていくことになる。
生活綴方は,はじめ地方農山漁村の公立小学校の教室とその校区青年会で始まったが,学校では国定教科書のなかった国語科綴方(作文)の時間を使って主におこなわれた。その原型を打ち出した一人である小砂丘(ささおか)忠義は高知県の山村の小学校での実践をへて,1930年から《綴方生活》を編集,全国的な運動の契機をつくったが,その伏線として芦田恵之助の随意選題綴方の主張や鈴木三重吉の《赤い鳥》(1918創刊)による綴方のリアリズムの運動があった。農村の疲弊が進むなかで,東北地方では秋田の青年教師たちを中心に《北方教育》(1930)が創刊され,社会科学的な観点から生活を把握する眼を綴方を通して育てようとする〈北方性教育運動〉が展開された。しかし,戦時体制の強化とともに生活綴方運動も弾圧を受けた。第2次大戦後は,主に北方系の綴方教師の手で再興されるが,アメリカ式の〈新教育〉が日本の現実から遊離しているとの批判とも結びついて盛んになり,1950年には日本綴方の会が発足(1952年,日本作文の会と改称),戦後の民間教育研究運動の中心となってきた。また,51年刊の無着成恭編《山びこ学校》(山形県山元中学校生徒の生活綴方)は広く注目を集めた。
生活綴方の方法は官僚統制下の地方社会だけで有効な初等教育の一方法にすぎないと,ながくみられてきたが,第2次大戦後の一時期には,生活綴方は,遅れた地方の子どもの指導方法につきるものではなく,近代日本の中央集権的な国語政策や外国からの移植の性格のつよい文化全体の内容に対して,国民生活に根づいたことばや文化像を求める立場から問題を提起しているのだ,と説かれたりもした。さらに,文章表現指導の部分だけが目につきやすいため,教育の方法ではあるとしても,子どもの生活全体の指導などできるものではなく,あくまで国語科作文という一教科目の指導方法にすぎないともいわれてきた。これに対しても,今日までいろいろの機会に反論がおこなわれてきたが,決着はついていない。なお,生活綴方の方法を青年やおとなに適用した場合,とくに生活記録とよぶことがある。
→作文教育 →生活記録運動
執筆者:中内 敏夫
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…また,ここから坪田譲治や新美(にいみ)南吉などの児童文学者を生むとともに,全国に多くの綴方教師を生んだ。昭和期に入ると,その文芸主義的,自由主義的傾向が克服されながら,生活綴方の運動を生み出す母胎となった。【上野 浩道】。…
…軸木中に芯を入れた筆記用具。
[歴史]
古代のギリシア,ローマでは,鉛の塊を使って鹿の皮などに記号を記していたといわれ,14世紀イタリアでは,鉛とスズを混合した芯を木軸に装着した鉛筆が作られたという。1564年にイギリスのカンバーランド地方ボローデールで良質の黒鉛が発見され,これを棒状に切断して糸でまいたり,木ではさんで使用するようになった。その一例がスイスの博物学者ゲスナーの図解と記述に見られる。ボローデールの黒鉛を使用した鉛筆は好評で,とくに,ルネサンスの画家たちの間に浸透していった。…
…この時期,〈読ミ方〉の方法や目標の研究が進められる一方で,〈綴リ方〉も,それまでの模範文章を模倣するというスタイルから一歩進み,自由に題を選ばせる方式が登場するようになった。のちに〈生活綴方〉として定式化される,自己の生活事象を題材に,そこに含まれる感動や疑問などを自由につづって,書くことにより生活認識や思想を深め,あわせて文章表現力をきたえるという日本独特の国語教育の方式も,この延長線上に生み出された。 戦後は,まずアメリカのコミュニケーション能力重視の国語教育論の影響があり,日常の言語生活を類型化して,電話のかけ方,討論のしかたなどを訓練するというようなやり方が広まった。…
…明治時代には模範文を示し,それを模倣させるという方式が主流であったが,大正時代に自由主義的な風潮が広まると,子どもたちに自由に題を選ばせる自由選題方式が唱えられ(鈴木三重吉らによる),以後この方式が一般化した。生活綴方はこの延長上に生み出されたものであるが,戦後はアメリカ的な言語技術主義が導入され,言語技術養成としての作文教育が主流となって今日に至っている。しかし生活綴方的な,あくまでも生活の具象を叙述することを通じた文章表現力と現実認識力の育成の主張も根強く,両者が並存しているのが現実である。…
…生活綴方,生活記録の方法の確立に足跡を残した高知県の小学校教師,のち編集者。本名笹岡忠義。…
…30年代に入ると,東北や北海道の貧しい農村の学校教育にうちこんでいた教師たちは,厳しい生活現実とのたたかいを軸にして教育のあり方を根本的に変革しようとした。いわゆる生活綴方の教育は,文章表現の指導と同時に生活認識の指導を意図したのであった。 第2次大戦後の教育において大きな影響力をもったのは,アメリカのプラグマティズムにおける生活経験主義であった。…
… 生活指導が,このように子どもの生きかたを生活現実に即して指導することを強調するのは,それが第2次大戦前の修身教育体制に抗してつくりだされた教育実践であることと深い関係がある。大正末から昭和初期にかけての戦前の民間教育運動では,生活指導ということばは,一つは生活綴方,いま一つは生活訓練のなかで使われはじめた。生活綴方は,生活をリアルにつづることをとおして,子どものものの見かた,考えかた,感じかたを徳目主義から解放し,生活に根ざした生きかたをつくりだしていくことを,文章表現指導にたいして生活指導とよんだ。…
…1930年代の生活綴方運動を担った教員たちの実践発表,論争の主舞台となった教師向け全国雑誌。子ども向け雑誌《綴方読本》をもつ。…
…この運動は教育現場の一部で自由放任という形で混乱を起こすこともあったが,芸術家,教師,父兄による民間の教育運動として展開し,美術教育の確立がはかられていった。また,生活綴方の影響を受けて生活現実とのかかわりを重視した生活画の実践も興ったが,全国に普及するにいたらなかった。その後,軍国主義化が進行し図画は〈国民的情操ノ陶冶ニ資スルモノ〉として,皇国民育成のための国民学校芸能科図画にとって代わられた。…
…教職員,教育学者,各専門分野研究者,ときには父母も参加し,政府,公共団体,企業さらには教職員組合からの財政的援助を受けず,自主的に教育を科学的に研究し,たえず教育実践を改革・推進する運動。この語は1950年代前半から使用され始めたが,同時に第2次大戦前にさかのぼり,おもに1920年代末から30年代にかけて展開された生活綴方などの教育運動をもふくめて使用されるようになった。民間教育研究運動はこれらの時期の日本の教育界に独特の運動であるが,それに先立ち,あるいは諸外国にも教育改革との関係でこれに近い運動はあった。…
※「生活綴方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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