戦略兵器削減交渉(読み)せんりゃくへいきさくげんこうしょう(その他表記)Strategic Arms Reduction Talks

日本大百科全書(ニッポニカ) 「戦略兵器削減交渉」の意味・わかりやすい解説

戦略兵器削減交渉
せんりゃくへいきさくげんこうしょう
Strategic Arms Reduction Talks

略称START(スタート)。アメリカとソ連が1982年に開始した交渉で、核時代における初めての戦略兵器の軍縮である第一次戦略兵器削減条約(START-Ⅰ)を生み出した。冷戦期の米ソ戦略兵器制限交渉SALT(ソルト)、1969~1979年)を引き継いだものではあるが、レーガン政権の政策見直しにより、この交渉は戦略兵器の実質的「削減」を目ざすものとなった。最初はソ連の新型中距離ミサイル(SS-20、1977年)の配備に端を発する中距離核戦力(INF)の規制問題から始まった。これをめぐる米ソのINF交渉が1981年11月に始まり、STARTもこれを追いかけるように1982年6月に開始された。しかしいずれも進展がみられないまま、1983年にアメリカがソ連に対抗してINF(パーシングⅡ、地上発射巡航ミサイルGLCM)の配備を開始したことからソ連が交渉から退席、両交渉は中断した。中断中の1983年、レーガン大統領が宇宙に迎撃兵器体系を配備して敵のミサイルを発射段階(および中間飛行段階、弾頭再突入後の段階)で迎撃する戦略防衛構想SDI)を発表し、ソ連が相互核抑止体制を不安定にするとしてこれに強硬に反対、対立はいっそう深まった。1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任したあと歩み寄りが始まり、米ソはINF、START、宇宙兵器規制を相互に関連させながら個別に交渉する包括軍縮交渉方式に合意、交渉を再開した。その後の交渉は冷戦終結過程と重なり、とくにソ連が国内経済立て直しのため軍備負担の軽減、平穏な国際環境を求めたことが促進要因となって、急速に進展した。

 米ソがまず合意に達したのが、中距離核戦力全廃条約である(1987年11月8日署名、1988年6月発効)。廃棄対象は地上配備の中距離(射程1000~5500キロメートル)・準中距離(射程500~1000キロメートル)ミサイルで、これによりアメリカはミサイル866、同発射基282、ソ連はミサイル1752、同発射基845を廃棄することになった(ただし取り外した弾頭の廃棄義務はない)。この条約の特徴は、特定カテゴリーの兵器とはいえ、それを全面的かつ世界的に禁止した実質的な核軍縮条約であること、および条約遵守を確保するためミサイル生産・廃棄施設の入口・出口での確認などの現地査察を含む詳細な検証規定が設けられた点にあり、その後の軍備管理交渉を大きく方向づけた。1991年6月1日までの3年間で廃棄が履行された。

 並行して行われたSTARTでも1985年11月のレーガン、ゴルバチョフの首脳会談ジュネーブ)では戦略兵器の50%削減という共通認識が生まれ、さらにレイキャビーク首脳会談(1986年10月)では戦略兵器運搬手段の上限を1600基機、搭載弾頭数上限を6000とする「潜在」合意に達した。「潜在」というのはアメリカがSDI推進を可能にするために示した対弾道ミサイル(ABM)制限条約の拡大解釈にソ連が反対し、連動して合意済みの他の事項も棚上げされたからである。SDIをめぐる対立が障害となりレーガン政権時代にはSTARTは合意に至らなかった。1989年にアメリカにG・H・W・ブッシュ政権(第41代)が誕生した後、ソ連がSTARTとSDI問題との切り離し交渉に応じたことから、1991年7月31日、米ソはSTART-Ⅰの調印にこぎ着けた。この条約のもとで戦略兵器は7年間にピーク時のおよそ半分、すなわち運搬手段(大陸間弾道ミサイル=ICBM潜水艦発射弾道ミサイルSLBM、重爆撃機)を1600基機、弾頭数は6000に削減することになった。ただし爆撃機搭載ALCM(空中発射巡航ミサイル)は実数の半分弱に計算されるので、実際の弾頭数はこれを上回る。検証は、先のINF全廃条約の検証制度をモデルとしたが、戦略兵器は全廃されるわけではないので検証規定は複雑なものとなった。また条約の履行について共同遵守・査察委員会が設けられた。

 条約調印直後の1991年12月25日、ソ連が解体した。このため新しい独立国ベラルーシ、ウクライナカザフスタンに残されたソ連の戦略兵器の処理をめぐる問題が生じた。1992年5月、アメリカとソ連を継承したロシアは、これら3国とリスボン議定書に調印した。これは3国が対米書簡の形で国内にある核兵器の7年以内の撤去に同意し、非核兵器国として核不拡散条約(NPT)に加盟するという合意である。しかし、ウクライナがその後もクリミアや黒海艦隊の帰属をめぐってロシアと対立し議定書履行が遅れたため、アメリカ、ロシア、ウクライナは改めて1994年1月、米ロがウクライナに安全の保障と経済支援を提供する旨の声明に署名した。ウクライナがこれを受けて1994年12月にNPT批准書を寄託し、START-Ⅰも発効した。

 アメリカ、ロシアは、並行していっそうの戦略兵器削減を目ざし、1992年6月、第二次戦略兵器削減条約(START-Ⅱ)の枠組みに合意し、1993年1月3日にはブッシュ、エリツィン両大統領が調印した。これは、2003年1月までに双方の戦略核弾頭数を、START-Ⅰからさらにおよそ半分の3000~3500に削減するものである。その後1997年9月に、ロシア側の核兵器解体の遅れなどから、当初2003年末と定められた履行期限が2007年末まで延期された。重要な遅れの原因は、ここでもアメリカのミサイル防衛に対するロシアの反対であった。アメリカはレーガン政権時代のSDIはすでに放棄していたが、冷戦後の地域紛争や大量破壊兵器の拡散をにらんでアメリカ本土や地域(戦域)のミサイル防衛(MD)システムの開発・配備を進めた。米ロはこの問題について1993年から協議を続け、1997年に迎撃ミサイルの速度や射程による区分でABM条約違反にあたらない戦域ミサイル防衛(TMD)の範囲について合意し、議定書に調印した。しかし国内でMD推進派が勢いを増すアメリカは、1996年1月にSTART-Ⅱ自体は批准したものの1997年議定書は批准しなかった。ロシアはこれに対し2000年3月議定書を含むSTART-Ⅱ全体を批准したが、アメリカの議定書批准を発効の条件とした。このため結局START-Ⅱは発効しなかった。米ロは1997年3月、START-Ⅱの発効後第三次戦略兵器削減条約(START-Ⅲ)を開始することにも合意したが、その交渉は行われなかった。冷戦終結とともにアメリカにとってロシアの脅威は低下し、東西対立を前提にした二国間軍備管理の緊急性は後退したのである。G・W・ブッシュ政権(第43代)は政権が発足した2001年12月13日、一方的にロシアが重視するABM条約からの脱退を宣言、米ソ(ロ)の核抑止体制を支えた同条約は2002年6月13日に失効した。その翌日14日、ロシアはSTART-Ⅱに拘束されない旨を宣言した。その間にも米ロは2002年5月24日、2012年末までに実戦配備されている弾頭数を1700~2200に削減する戦略攻撃能力削減条約(Strategic Offensive Reductions Treaty:SORT、通称モスクワ条約)に署名した(2003年6月1日発効)。しかしこの条約の上限は、もともとアメリカが一方的にそこまで削減を予定した数であったうえ、削減される弾頭の廃棄義務、履行の検証規定がなく、軍縮・軍備管理上それほど意味のある条約ではなかった。

 ロシアはアメリカのこうしたロシアとの戦略関係の軽視に反発し、INF条約やヨーロッパ通常戦力条約(CFE)その他の軍備管理取決めの履行停止の可能性を公言し、旧ソ連からの独立国への影響力行使をふたたび強めた。2008年8月にはついに民族問題で対立するジョージア(グルジア)に軍事侵攻するに至った。とくにアメリカ外交にとって支障になったのは、北朝鮮、イランなどの核拡散問題に対する非協力であった。2009年に発足したオバマ政権が就任後まもなくプラハで「核なき世界」構想を打ち出し、その当面の課題としてSTART-Ⅰ(2009年12月失効)を引き継ぐ新戦略兵器削減条約(新START)の米ロ交渉開始をあげたのは、ひとつにはこうした状況を打開するねらいがあった。オバマ政権はロシアが嫌っていたチェコ、ポーランドへのMDシステムの配備計画を修正した。米ロは2010年4月8日、7年間で戦略核弾頭数を1550、ミサイルを800基機(配備は700基機)に削減する新STARTに署名した(2011年2月5日発効)。START-Ⅱ(未発効)の上限からさらにおよそ半減させるもので、その検証はロシアのミサイル生産工場における常駐査察などはなくなったが、基本的にはSTART-Ⅰを踏襲する。この条約における弾頭上限の1550という数字は、次の交渉では米ロの欧州配備の戦術核のみならず、イギリス、フランス、とりわけ中国の核戦力の扱いが問題になる段階に達したことを示している。その意味で、冷戦期の過剰戦力の削減から新たな核軍縮へ踏み出すかどうかの決断が迫られる時代を迎えたことを示す条約である。

[納家政嗣]

『浅田正彦・戸崎洋史編『核軍縮不拡散の法と政治』(2008・信山社出版)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「戦略兵器削減交渉」の解説

戦略兵器削減交渉(STARTⅠ,Ⅱ)(せんりゃくへいきさくげんこうしょう)
Strategic Arms Reduction Talks Ⅰ and Ⅱ

米ソが1982年から戦略兵器制限交渉(SALT(ソルト))に替えて始めた戦略核兵器の削減交渉。当初交渉は停滞したが,85年のソ連ゴルバチョフ政権誕生,89年の冷戦の終結により進展し,91年両国は戦略兵器の運搬手段や弾頭数を制限する第1次戦略兵器削減条約(STARTⅠ条約)に調印した。ソ連の解体で,アメリカ,ロシアほか旧ソ連諸国の計5カ国で94年発効。またアメリカ,ロシアは更なる削減のため93年に第2次戦略兵器削減条約(STARTⅡ条約)に署名したが,ABM制限条約廃棄の影響もあって発効に至らなかった。しかし,両国は双方の戦略核弾頭の配備数を減らす戦略攻撃能力削減条約(モスクワ条約)を2002年に調印し,同条約は翌03年に発効した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の戦略兵器削減交渉の言及

【戦略兵器制限交渉】より

…NATO理事会はすでに1979年12月に一方ではアメリカのパーシングII中距離ミサイルへの更新と地上発射巡航ミサイル(GLCM)の配備の準備,他方でのソ連との交渉という〈二重決定〉を行っていたが,それがレーガン政権のもとで現実の課題となってきたのであった。こうして米ソINF交渉は1981年11月に始まり,並行してSALTに替わる,核戦力の実質的な〈削減〉を目標とする戦略兵器削減交渉(Strategic Arms Reduction Talks,略称START)が1982年6月に開始された。しかしNATO側のINF配備予定時期が迫っても交渉には進展が見られず,NATOが1983年に予定通りアメリカのパーシングII,GLCMを配備すると,ソ連はINF,START両交渉から退席し,交渉は再び中断した。…

※「戦略兵器削減交渉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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