戦略兵器制限交渉 (せんりゃくへいきせいげんこうしょう)
Strategic Arms Limitation Talks
略称SALT(ソールト)。一般には大陸間弾道ミサイル(ICBM),潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)とそれを搭載する潜水艦,大型長距離爆撃機とそれが搭載する核爆弾,空中発射巡航ミサイル(ALCM),およびこれらのミサイルの核弾頭などの規制交渉を指す。
SALT Ⅰ
米ソは,1969年から第1次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅰ)を開始し,72年5月に二つの取決めに調印した。一つは弾道ミサイル迎撃ミサイル(ABM)制限条約(ABM条約)である。この条約で米ソはそれぞれABM基地を首都とICBM基地の2ヵ所(各100基,計200基)に制限することを約束した。74年7月にはこの条約の付属議定書が調印され,ABM基地は双方1ヵ所(100基)にとさらに制限された。命中精度が高く迎撃能力の優れたABMの開発は技術的に難しく,財政負担の大きいことが早くから知られており,そのため合意が比較的容易であった。もう一つの戦略的攻撃兵器制限暫定協定(SALT Ⅰ)は,ICBM,SLBM,SLBM装備潜水艦を1972年7月の保有数に制限し,表1に示す上限を設けた(1977年10月失効)。しかし,この条約は上限があまりにも高いうえに,弾頭の個別誘導複数核弾頭(MIRⅤ)化などの質的増強を野放しにしており,内容的に軍縮からはほど遠いだけでなく,核軍備競争を抑制する効果にも乏しかった。これらの条約は,米ソの相互核抑止体制の安定化(双方が相手からの攻撃に脆弱である状態を確実にする)のために核戦略と財政負担の観点から相互に戦力を調整したという性格が強く,米ソ緊張緩和(デタント)最盛期を象徴する取決めであった。
SALT Ⅱ
1972年12月,米ソは第2次取決めをめざすSALT Ⅱを開始し,75年以降,ソ連の中距離爆撃機〈バックファイア〉とアメリカの巡航ミサイルを規制対象に含めるかどうかで難航したが,交渉開始からおよそ7年半を経た79年6月18日,戦略的攻撃兵器制限条約(SALT Ⅱ)の調印にこぎつけた。同条約は,表2に示すような米ソ同数の数的上限を決めたほか,本文,議定書,覚書などに,MIRⅤ化ミサイルの弾頭数制限,〈バックファイア〉の生産機数制限,ALCMや移動式ICBMなどの配備や発射実験禁止,その他の量的・質的規制を盛り込んでいる。しかし,上限は依然として著しく高く,弾頭数も大幅に増やせるうえ,新兵器も開発は禁止されていなかった。また,調印された年の12月,ソ連軍がアフガニスタンに侵入したため,アメリカは議会の批准審議を打ち切り,同条約は発効しなかった。
→核戦略
執筆者:納屋 政嗣
INF全廃条約とSTART Ⅰ
INF(中距離ミサイル)交渉が合意に達し,1987年11月8日,米ソは中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に署名した。これによりアメリカは866基,ソ連は1752基の地上配備の中距離,準中距離ミサイルおよび発射基,支援構築物・施設を廃棄することになった(発効後3年で履行済み)。米ソの中距離ミサイル(核弾頭は廃棄対象外)はヨーロッパだけでなく世界的に,また将来の生産,実験,保有も禁止された。さらに91年7月31日,米ソは戦略兵器削減条約(START Ⅰ)に調印した。この条約は戦略兵器運搬手段(ICBM,SLBM,重爆撃機)を7年間で1600基機に,弾頭数を6000発に削減することを規定している。
START Ⅰ調印後,米ロは戦略核戦力の一層の削減を目指し,ブッシュ,エリツィン両大統領は1993年1月3日,戦略攻撃兵器削減条約(START Ⅱ)に調印した。これはSTART Ⅰを基礎として2003年1月1日までにMIRⅤ装備ICBM,重ICBM(ロシアのSS-18)の全廃を含め,双方の戦略核弾頭数をさらに3000~3500発に削減することを目指した条約である。
執筆者:編集部
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戦略兵器制限交渉
せんりゃくへいきせいげんこうしょう
Strategic Arms Limitation Talks
SALT(ソルト)と略称される。アメリカとソ連が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、爆撃機などの数量的規制を目ざして行った交渉。1969年から始まったSALT-Ⅰは、1972年5月26日に次の二つの取決めを生み出した。一つは、対弾道ミサイル(ABM)システム制限条約(通称ABM条約)で、ABMシステムの配備を禁止し、首都とICBM基地の2か所(各100基、計200基)だけの配備を例外として容認した。米ソは1974年7月3日、同条約の議定書に合意し、ABMシステムの配備はさらに米ソ各1か所に制限された(同条約は2002年6月失効)。もう一つは、ICBM、SLBMの発射基数およびSLBM搭載潜水艦隻数に上限を設けた戦略的攻撃兵器制限暫定協定である。両国の戦略的攻撃戦力を現状に凍結する上限を設けたもので、当時の両国の保有数はICBM、SLBM、潜水艦隻数はそれぞれアメリカが1054基、710基、44隻、ソ連が1618基、950基、62隻であった。防衛兵器を最小限に制限し攻撃兵器に制限ともいえない高い上限を設けることで、米ソは相互に相手国の国民・社会・産業などを人質にとる相互確証破壊態勢において核抑止体制を制度化した(SALT-Ⅰ協定は1977年10月失効)。
第二次交渉(SALT-Ⅱ)は1972年12月に始まり、1974年に取決めの原則合意にこぎ着けた。その後も交渉はソ連のバックファイア爆撃機とアメリカの巡航ミサイルの扱いをめぐって難航したが、1979年6月18日、米ソは(第二次)戦略的攻撃兵器制限条約(SALT-Ⅱ条約)に調印した。SALT-Ⅰ協定がソ連に数的優位を認めたとしてアメリカ国内から批判を受けたため、同条約は戦略兵器総数に米ソ同数の上限を設けた。総枠としてICBM、SLBM、重爆撃機、空対地弾道ミサイル(ASBM)の合計の上限を2400(1981年以降は2250)基機、その内枠として個別誘導複数目標弾頭(MIRV)化ICBMのみの上限を820基、これにMIRV化SLBMとASBMを加えた合計の上限を1200基、さらに射程600キロメートルを超える巡航ミサイル搭載の重爆撃機を加えた合計の上限を1320基機とした。当時の米ソのミサイルなどの保有数からみて非常に高い上限であり、実質的な制限とはいえなかった。米ソ関係が悪化するなかでの難交渉のすえに生まれた条約であったが、調印直後にソ連がアフガニスタンに侵攻、アメリカ上院が批准審議を打ち切ったため同条約は発効しなかった。1981年に発足したレーガン政権は、SALTを軍縮に結びつかず、また交渉するほどアメリカに不利になるとして軍備管理交渉の全面的見直しをはかった。このため交渉は2年以上にわたり休止した後、1982年から新たな戦略兵器削減交渉(START(スタート))に引き継がれた。
[納家政嗣]
『梅本哲也著『核兵器と国際政治 1945―1995』(1996・日本国際問題研究所)』
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「戦略兵器制限交渉」の意味・わかりやすい解説
戦略兵器制限交渉【せんりゃくへいきせいげんこうしょう】
strategic arms limitation talks,略称SALT(ソールト)。第1次交渉は米ソ間で1969年11〜12月に予備交渉,1970年4月から本交渉が始まった。1972年5月に妥結点に達し,弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約および攻撃兵器制限暫定協定に調印(SALT I)。ABM制限条約ではABM配置場所を2ヵ所(200基)に限定し,国外配備を禁止。攻撃兵器制限協定では大陸間弾道ミサイル(ICBM)およびミサイル潜水艦の数の現状凍結を規定した。第2次交渉は1972年より開始,1979年6月調印(SALT II)。米ソ両国の保有するICBMほか戦略核兵器運搬手段の制限,新型戦略核兵器の研究・開発の禁止等を協定。米国議会はこの条約を批准しなかったが,両国政府は協定順守を表明した。しかし1986年11月,米国は協定の制限を越える核兵器を配備し,協定を破棄した。→核戦略/戦略兵器削減条約
→関連項目信頼醸成措置
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戦略兵器制限交渉
せんりゃくへいきせいげんこうしょう
Strategic Arms Limitation Talks; SALT
アメリカ,ソ連両国の間で 1969年から 79年まで続けられた戦略兵器制限に関する交渉。第1期 (SALT I) は 69年 11月から行われ,第1次戦略兵器制限取決めは 72年5月 26日に調印,弾道ミサイル迎撃ミサイルABM制限条約と戦略的攻撃兵器制限暫定協定が結ばれた。 ABM制限条約については 74年7月3日にその付属議定書が調印された。攻撃兵器制限に関しては,第2次戦略兵器制限取決めを目指す交渉 (SALT II) が 72年 11月に始められ,74年 11月の交渉で新協定の大枠について合意が成立,79年6月 18日,ウィーンで J.カーター大統領と L.I.ブレジネフ書記長との間で新協定が結ばれた。
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戦略兵器制限交渉
せんりゃくへいきせいげんこうしょう
Strategic Arms Limitation Talks
大陸間弾道ミサイル(ICBM),空中発射巡航ミサイル(ALCM)とそれを搭載する爆撃機,潜水艦発射弾道ミサイルとそれを搭載する潜水艦,これらのミサイルの核弾頭などの制限交渉
1969年,米ソは第1次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅰ)を開始,72年5月26日,モスクワを訪れた米大統領ニクソンがソ連書記長ブレジネフと調印した。1972年12月には,第二次(SALT Ⅱ)の交渉を開始,戦略兵器の運搬や総数について,より細かい内容を検討し,79年6月18日にウィーンで米大統領カーターとブレジネフが調印した。しかし,同年12月,ソ連がアフガニスタンに侵攻したため,米上院は批准審議を打ち切り,条約は発効せず,1985年には失効した。
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戦略兵器制限交渉(SALTⅠ,Ⅱ)(せんりゃくへいきせいげんこうしょう)
Strategic Arms Limitation Talks Ⅰ and Ⅱ
1969年より始まった米ソ間の2次にわたる核軍縮交渉。第1次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)の結果,72年に両国はABM制限条約と核戦力の保有数の上限を定めた戦略兵器制限暫定協定(SALTⅠ暫定協定。77年失効)を結んだ。第2次の交渉(SALTⅡ)は,72年に始まったが難航し,79年にようやく戦略兵器制限条約(SALTⅡ条約)が調印されたが,同年のソ連軍のアフガニスタン侵攻もあって発効に至らなかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報