冷戦(読み)れいせん(英語表記)cold war

翻訳|cold war

精選版 日本国語大辞典 「冷戦」の意味・読み・例文・類語

れい‐せん【冷戦】

〘名〙 (cold war の訳語) 国際間における経済・思想・宣伝など、武力によらないはげしい対立抗争。第二次世界大戦後の造語で、米国とソ連の間の対立関係を称したことに始まる語。冷たい戦争。コールドウォー。また、人間関係などで、それに似た状態にもいう。
※ボロ家の春秋(1954)〈梅崎春生〉「すでに戦ひは冷戦の様相を呈し始めて来たのです」

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デジタル大辞泉 「冷戦」の意味・読み・例文・類語

れい‐せん【冷戦】

cold war》武力は用いないが、激しく対立・抗争する国際的な緊張状態。第二次大戦後の米・ソ二大陣営の厳しい対立を表した語。人間関係などに用いる場合もある。冷たい戦争。
[補説]顕在化したのは1947年のトルーマン‐ドクトリンからとされる。1949年のドイツ分裂とNATO成立、1962年のキューバ危機など幾度かの国際緊張をもたらしたが、1989年、マルタ島において米国のG=H=W=ブッシュ・ソ連のゴルバチョフ両首脳が冷戦終結を共同宣言した。

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改訂新版 世界大百科事典 「冷戦」の意味・わかりやすい解説

冷戦 (れいせん)
cold war

第2次世界大戦の終了後,アメリカとソ連はしだいに厳しい緊張関係に陥り,双方が参加する戦争をも起こしかねない緊迫した敵対関係が続いた。この対立はほぼ世界の全体に及び,戦後の国際政治の基本的な対立軸を形成した。この状態を,実際に撃ち合う戦争〈ホット・ウォーhot war〉と対比して一般に〈冷戦〉(コールド・ウォー)と呼んでいる。

 1989年秋の東欧諸国で共産主義体制を崩壊させた革命,1990年10月のドイツ統一,そして1991年末のソ連の解体をもって,戦後40年以上にわたり,国際政治の枠組みとなっていた冷戦は終焉した。

〈冷戦〉という用語は,1947年,当時アメリカ政府内で大きな影響力をもち,国際連合原子力委員会のアメリカ代表であったB.M.バルークが,公演のなかで〈ソ連はアメリカに冷戦を挑んでいる〉と述べたときから一般に用いられるようになった。たとえばアメリカの著名なジャーナリストであったW.リップマンは,47年の後半に当時のアメリカの対ソ政策を批判した著書に《冷戦--アメリカ外交政策の研究》という表題をつけている。このように〈冷戦〉という用語は,まずはある状態を比喩的に示す言葉として使われそして一般化したため,厳格な定義を与えることはきわめて難しいといえるが,概していえば,第2次大戦後の高度に敵対的な米ソ関係とそれに大きく左右された国際政治の一時期とまとめることができよう。

 〈冷戦〉は,国際政治のなかでつねに生起した,国際政治の覇権を求める主要大国間の対立の一つの形態と考えられるが,近代国際政治上存在した対立関係と比較して,次のような構造的特質を指摘することができる。

第1に,アメリカとソ連の2国が,他国に力を行使しえる能力という点において圧倒的優位にたち,国際政治の中心を占めたことである。しかし,アメリカとソ連を比較するとアメリカが優位にあったことを忘れてはならない。そして2国のこの優位は,かつての大国,イギリス,フランス,ドイツ,日本が第2次大戦により甚大な損害をうけ,この時期復興の過程にあったことによることも忘れてはならない。このようなアメリカのあるいはアメリカとソ連の圧倒的な力を指して,19世紀に同様な地位にあったイギリスに冠せられたパクス・ブリタニカになぞらえて,パクス・アメリカーナあるいはパクス・ルッソ・アメリカーナという表現が用いられている。

第2に,二つの〈超大国〉を中心としてブロックの形成がなされ,多くの地域で国家は東側陣営か西側陣営に組み込まれていき,南北朝鮮,南北ベトナム,東西ドイツのような分断国家が発生ないしは定着することにもなったことである。その結果,アメリカとソ連をそれぞれの陣営の中枢として二つの陣営が相互に敵対する,いわゆる〈二極体系〉が成立した。そして二つの国が圧倒的優位にたち,同時にこの大国を中心としてブロック化がなされるという以上の二つの特色は,19世紀にヨーロッパの大国間に存在した,ほぼ同等の力をもつ国々が柔軟に連合している,いわゆる〈勢力均衡体系〉とは構造的に異なっているといえる。

第3に,二つの〈超大国〉,ないしは陣営の間では,政治体制の違いによる対立も生じ,それぞれの体制の政治原理の政党性をめぐって激しい論争が繰り返された。いわゆるイデオロギー対立であり,対立は妥協がほとんど不可能な原理の正否をめぐる様相を呈した。たとえば,アメリカは東側陣営を〈多数の上に強制された少数の意思を基礎としている。それは恐怖と弾圧,新聞・ラジオの検閲,定められた選挙,そして個人の自由の抑圧に依存している〉(1947年3月,トルーマン・ドクトリン)体制であるとし,ソ連は西側陣営を〈帝国主義・反民主主義陣営で,アメリカ帝国主義の世界制覇と民主主義の破壊とを基本目的としている〉(1947年9月,コミンフォルム宣言)体制であると批判した。

 イデオロギー対立は,確かにこの時代に限られたものではない。1930年代のファシズムと民主主義の間でも同様な現象がみられた。しかし,自由主義もマルクス主義もファシズムに比べ,政治思想としてより長い理論的伝統をもち,また政治運動のあるいは政治体制の原理としてより早くから確立していたため,対立は理論にまで及ぶ,またその国の政治的伝統をも賭けた全面的なものとなった。このイデオロギーの全面的対決は,イデオロギーの一元化をもたらし,ソ連においてはスターリン体制末期を特色づける極端なイデオロギー強化が起こり,アメリカにおいてもマッカーシイズムにみられる極端な反共主義が台頭することになった。さらには,この一元化はそれぞれの陣営においても矛盾をもたらし,西側においては反共主義であるがゆえに非民主主義体制をとる国へもコミットせざるをえなくなり,また東側においても〈衛星国〉からナショナリズムに根ざす反逆をうけざるをえなくなった。

第4に,米ソ間の,あるいは東西両陣営の対立は,厳しい軍事的緊張を伴うものであった。実際,朝鮮戦争のように軍事的対立が戦争に転化した場合もあったし,キューバ危機のような〈核戦争〉が勃発する危険をはらんだ国際危機がいく度となく存在した。その原因としては,次の三つをあげることができる。

(1)戦争の遂行を可能とする高度の軍備状態が存在したことである。核兵器は,〈絶対兵器〉といわれたように,驚異的な破壊力と飛躍的な運搬能力をもつことから,それに対する防衛をほとんど不可能とした。そのため安全保障のあり方が根本的に変化し,双方ともに核兵器の保持と強化によって相手からの攻撃を防ぐという基本姿勢をとった。その結果,核兵器の増強が進み,同時に各種兵器も増強され,高度な軍備状態が生れることになった。

(2)この高度な軍備状態を背景として,軍事力に依存する対外政策が進められたことである。たとえば,〈瀬戸際政策〉といわれる戦争の危険性をも賭けて相手側を屈伏させる強硬政策も展開された。同時に対外政策は軍事政策と密接不可分となり,軍事的考慮から対外関係を考える傾向も強まり,友好関係を同盟関係と同一視する政策が展開された。

(3)国内政治も,このような軍事的敵対関係を支える形で編成されていったことである。国民のなかでは相手側を善と悪とで考える単純化された対外イメージが支配的となり,指導者においては,敵対政策を正当化するためにこのイメージを強化すると同時に,逆にこのイメージに拘束され敵対姿勢を強化せざるをえないという傾向もみられた。それとともに敵対国との戦いが優先課題となり,それを防げる行為は政府により制約され,極端な場合には〈国内の敵〉の弾圧という措置すらもとられた。総じていえば,平時においても戦時と同様の状態が生まれ,国際政治においても国内政治においても戦争と平和との境界が不分明になった。

第5に,米ソを中心とする敵対関係が,植民地状態におかれた地域の独立あるいは解放の動きと連動し,世界的な広がりをみせたことである。〈脱植民地化〉は,旧支配国が第2次大戦で急速に力を喪失したこと,および植民地においてもナショナリズムが高揚し独立あるいは解放を求める運動が展開されていたことによるものであり,基本的には植民地の支配か開放かをめぐる支配国と支配された側との紛争であった。そして米ソ対立と〈脱植民地化〉との連動は,地域により様相を異にするものの,次の二つの力学が働いていたといえる。

(1)米ソが〈脱植民地化〉の過程を,自国の影響力の拡大か喪失かの問題ととらえたことである。それには,〈独立革命〉の経験に根ざす植民地主義に対する反発というアメリカ外交の伝統と,また反帝国主義の立場から民族解放を掲げるソ連の外交理念も深く関係していた。

(2)〈脱植民地化〉の担い手に対する支援をとおして,その体制とのあるいは反体制運動との関係が硬直化し,そこへの〈関与〉が〈過剰関与〉なり〈介入〉に転化するという傾向がみられたことである。そして,この連動を考えるとき注意を要することは,これらの新興独立国が超大国の影響下におかれるという側面と同時に,超大国側もこれらの国々からの過剰ともいえる負担要求に従わざるをえないという逆拘束の側面もみられたことである。

しかし以上の構造的特色は,冷戦を維持させた要因から指摘したものであり,この時代に,それと同時に冷戦を緩和ないしは変化させる要因も存在したことを忘れてはならない。

西欧や日本のような国々の復興とともに,力の平準化が進んでいったことである。この動向は,とくに経済の分野で顕著にみられる。しかし軍事の分野では,米ソが圧倒的な力を持ち続けていることを忘れてはならない。

 ブロック内にそれの緩和を求める動きが発生したことである。それは力の平準化とも関係するが,ブロックの強化が,対外政策の,場合によっては国内政策の一元化につながり,それに対して自国の自主性を求める動きが生じることになった。この動きは,現象としてブロックからの離脱(フランスのNATO脱退)や反抗(東欧における一連の暴動)という明示的な形態をとることもあればブロック内での影響力の強化の試み(ヨーロッパ統合の強化の試み)という外交面での動きをとることもあるが,一般的にはナショナリズムに根ざしたものであるといえよう。

イデオロギーの全面対決においても,その矛盾が明らかになっていったことである。ひとつは,米ソの体制なり政治原理なりがブロック内で支配的なものとなり,いわば他の諸国のモデルとまでなっていったが,それが他の国々に適合できないことも明らかになり,ブロック内での多様性が承認されていく傾向がみられたことである。それは,東側ブロックでは中ソ対立なり〈社会主義の多様な道〉の模索となって現れ,西側ブロック,ことに西欧ではデモクラシーがそれぞれの国の伝統に根ざした形で存在することの承認の過程となって現れていった。ついで,イデオロギーの強化に由来する病理が米ソでも明白となり,それの改善を要求する声が高まりはじめたことである。

 アメリカにおいては〈自由〉の問題が大きな関心を呼び,ソ連においてはスターリン体制が問題視されることになった。そしてまたイデオロギーによって,国際政治を過度に単純化して認識し行動する方法にも批判が起こった。対立国との関係をいわば〈神と悪魔〉との関係としてまったく和解が不可能とする態度は,相手国の存続を前提としてそれとの関係を考える従来の国際政治の態度とは大きくかけ離れたものであり,そのような態度を改めるべきであるという批判がなされたのである。それは,ソ連においては〈平和共存〉路線への転換となって現れ,またアメリカにおいてもダレス外交批判となって現れた。しかし,このイデオロギー対立は異なった政治体制と政治原理をもつ国家間の対立であるかぎり,緩和されることはあっても解消されることはないという事実(西側における反共主義の存在,東側における〈帝国主義国〉への不信)に注意する必要がある。

軍事的関係においても変化が起こった。第1に,米ソの核兵器の増強が進み,核兵器が使用される場合には両国とも壊滅することになるという状況が発生したことである。そして核戦争による共滅という認識は,しだいに米ソの指導者にも抱かれるようになっていった。〈われわれは十分におおきな国についていっているのだが,その国が攻撃されたとしても,その国は攻撃者に十分の報復を与える可能性をもつであろう〉(フルシチョフ,1960),〈男も女も子どもたちも,すべては,偶発的な事故や狂気によって,いつなんどき切られるかも知れないきわめて細い糸で吊られた,核というダモクレスの剣の下に生活している〉(ケネディ,1961)と米ソの指導者は述べている。第2に,軍備増強なり軍事的対立なり戦争の危機なりの軍事的緊張の断続に対して,軍縮の提案がなされ,またそれを要求する民衆レベルの運動も発生したことである。軍縮提案は確かに自国の立場を有利にするための手段としてなされたという側面をもち,そのため交渉は難航し具体的成果はえられなかったことが多いが,政治的には1950年代後半西欧諸国で発生した反核運動(1957年のゲッティンゲン宣言や,58年イギリスの核非武装運動CND,西ドイツの原爆死反対運動など)のように広範な運動の存在が指導者に無視できないものとなり,彼らに抑制を迫ったこともあった。

米ソの対立が世界的規模になるにつれて,いずれのブロックにも属さず両ブロックの間にたって対立の緩和に努めようとする動きも出てきたことである。この構想は,戦争直後西欧においても社会主義政党を中心にいわゆる〈第三勢力〉の主張となって唱えられたが,外交の舞台での中心となったのはインドに代表される植民地からの独立国であり,ことに朝鮮半島なりインドシナなり植民地下におかれた地域が戦争の舞台になるにつれて中立主義の立場は注目を集め,1954年なはインドと中国の間で〈平和五原則〉が発表され,翌55年にはその原則にそったバンドン会議(アジア・アフリカ会議)が開催された。その後,この動きは〈非同盟主義〉(非同盟)として展開されていくことになる。

冷戦がどのようにして始まったのかについてはさまざまな見解があるが,ここでは歴史的・構造的要因と状況的要因に分けて説明することにする。

(1)歴史的・構造的要因の第1は,いうまでもなく従来の大国が第2次大戦で疲弊し,大国として国際政治の舞台から後退したことである。とくにドイツ,日本の敗北はそのみずからを含めた支配地域に力の真空をもたらし,そこでの国際的・国内的秩序の確立を戦後の課題とすることになった。したがって日本,中国,朝鮮,ドイツ,東欧がまずは冷戦の舞台となることになった。

 第2に,アメリカとソ連の伝統に根ざすその対外政策の特殊性である。アメリカにおいては,それはまず孤立主義の伝統であり,旧世界の権力政治を論理的に否定すると同時に,そこでの勢力均衡が著しく不安定化するときには介入するという契機もはらむものであった。しかし,戦後のアメリカの半恒久的ともいえる介入は,アメリカの体制の優位の信念に根ざした,体制の拡大を宿命とみなしまた使命とみなす伝統的外交観とも結びついていた。一方ソ連においては,まず社会主義の一つの原則であるインターナショナリズムと確立された国家の利益との関係が問題となり,スターリン体制下にあっては,後者の前者に対する優位という形で外交が展開されていた。それは,国際共産主義運動がソ連の国家的利益に従属することを意味した。ついでロシアの伝統にも根ざす強い包囲意識が,革命直後の対ソ干渉戦争をとおして,またナチズムをとおして強化され,安全保障がソ連の最大の国家的要請となった。戦争末期から戦後にかけてのソ連を中心とする東欧のブロック化は,まさにこの要請に応じたものであった。

(2)状況的要因とは,第2次大戦とその直後の西側連合国とソ連との関係を指す。1941年の独ソ戦の勃発以来ソ連と西側連合国は〈大同盟〉を形成し,共通の敵に対する戦争を展開した。しかし他の多くの戦時同盟と同様,その関係は協力と同時に対立の契機を含むものであった。協力はいうまでもなく敵の打倒という絶対的要請から導かれたものであり,対立は協力のあり方・戦後構想の違いからくるものであった。対立は,ソ連が対独戦の遂行上その負担軽減に不可欠な〈第二戦線〉の開始が遅延したことがソ連の疑惑を高め,またソ連が要求した東欧における戦後秩序の構想(ことにポーランド)が西側の疑惑を招くというかたちで早くから存在していた。そして戦争が末期に入るにつれて,テヘラン,ヤルタ,ポツダムの巨頭会談による調整の試みにもかかわらず,対立の側面は徐々に顕在化し,東欧におけるソ連の行動,武器貸与にかわるソ連の再建のための融資の拒否,分割占領と非軍軍化の合意にもかかわらず賠償に関して生起したドイツ処理問題,そして戦後のアメリカの優位を決定的に位置づけた原爆投下の問題である。

 しかし,このような対立は不可避的に〈冷戦〉に導くものではなかった。それには,ソ連の東欧での支配圏の確立とアメリカの経済力と技術力を前提とした対ソ政策の確定とが必要であった。戦後アメリカは,いまだ明確な対ソ政策を確定できず原子力管理や対ソ経済協力をとおして妥協する動きもみられたが,ソ連の東欧における支配圏の確立やイランおよび東地中海での行動から〈世界のならず者〉というソ連のイメージを固めていった。1946年2月スターリンが両体制の対立と戦争の不可避を説いた演説を行った直後,アメリカは,当時駐ソ米代理大使であったG.F.ケナンからソ連の対外膨張を分析した〈長文電報〉をうけとり,これらを契機として新たな対ソ方針の確定と国内での準備が進められていくことになった。ソ連との対立の不可避性の強調(1946年,チャーチルがアメリカで行った〈鉄のカーテン(バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステにいたる線をいう)〉演説),対ソ強硬姿勢の明示(ドイツ,朝鮮,イラン,トルコにおける非妥協的姿勢),そしてアメリカの優位の維持(6月,核の管理に関するバルーク案)という一連の政策である。47年3月,以上の政策を最終的に確立したものとしてトルーマン・ドクトリンが出された。これはアメリカ議会でトルーマン大統領が宣言した外交政策であり,〈共産主義の拡大に対抗するため,自由と独立の維持に努力し,かつ少数者の政府支配を拒否しようとする諸国の軍事的・経済的援助を与える〉というもので,これにもとづいてまずギリシアとトルコに援助が与えられた。

(1)ヨーロッパ 冷戦はまずヨーロッパで深化した。アメリカはまず西欧の経済復興にのりだした。西欧の強化と同時に内側からの共産化を防止することがねらいであり,それは1947年6月,マーシャル・プランとなって示された。これに対してソ連は参加拒否の態度をとり,9月にはコミンフォルムを創設しそれに対抗した。このアメリカの戦略は〈封じ込め政策containment policy〉といわれるが,その起案者ケナンの意図と異なり,しだいに軍事的な対抗という側面を強化していくことになる。一方この間,ソ連も東欧での支配の強化に努め,ソ連の指導下にある共産党支配の政府を樹立しようとしていた。47年のハンガリーであり,また48年2月チェコスロバキアにおける共産党による政権奪取である。しかしその反面,48年6月ユーゴスラビアのコミンフォルムからの除名にみられるように,このようなソ連の支配強化に反発する動きもみられはじめた。ソ連の支配の強化,ことにチェコスロバキアでの政権奪取は西側に大きな衝撃を与え,軍事的対応に弾みを与えることになった。

 このヨーロッパでの対立がもっとも直接的に及んだのがドイツであった。戦後4ヵ国の分割占領下におかれていたが,しだいに西側地区と東側地区での分断が進み,1948年の初頭,西側での分断国家の第1歩である通貨改革が導入されたとき,ソ連はベルリン封鎖でもって応じた。この事件はドイツの分断を決定的なものにし,翌49年にはドイツ民主共和国(東),ドイツ連邦共和国(西)が樹立され,それと同時に,西側での軍事的対決姿勢をさらにいっそう強化し,49年4月北大西洋条約機構NATO(ナトー))が成立した。しかし49年9月ソ連の原爆保有が明らかになると,アメリカはその戦略を軍事にたよるものに変更し,50年1月水爆製造の促進命令が出され,4月には国家安全保障会議文書68(NSC-68)が作成され,アメリカとその同盟国の軍事力強化によるソ連との対決が方針として確立された。〈冷戦とは実際,自由世界の生存が賭けられている現実の戦争なのである〉と同文書は述べている。

(2)アジア 冷戦は東アジアに広がっていった。敗戦した日本はアメリカの軍事占領したにおかれ,朝鮮半島も北緯38度線を境として北と南に分割され,それぞれソ連とアメリカの軍事占領下におかれた。また中国は国民党政府と共産党との内戦状態にあった。このなかでアメリカは,まずは日本とフィリピンを西側に組み込みそこを〈防衛線〉とする方針をたて,朝鮮で1948年南北に分断国家が成立した後は軍事的撤退を行い,また中国においても国民党政府を支援したものの,それほど積極的ではなかった。しかし49年11月中国に共産党政権が成立し,50年2月中ソ友好同盟条約が締結されると,急速に中国の〈喪失〉感が広まっていった。6月の朝鮮戦争の勃発は,東アジアを冷戦の最前線に押し上げることになった。53年7月の休戦協定までアメリカと中国をも巻き込んで約3年間続いた朝鮮戦争は,アジアで戦争が勃発したということにおいて,国際政治的に重要な意味をもった。

 第1に,戦争の発生は対立が軍事対決になるとことを例証したことである。そのため,この時期には軍事的側面が極大にまで強調されることとなった。アメリカは準戦時体制に入り,またマッカーシイズムにみられるように反共主義が高進した。ヨーロッパではNATOが強化され,同時に西ドイツも再軍備を試み,これに対応してヨーロッパ防衛共同体の設立が試みられた。アジアにおいてもANZUS(アンサス)条約米比相互防衛条約が締結され,また対日講和条約と同時に日米安全保障条約が締結され,日本の再軍備が進められた。ケナンは,日本の中立化と非軍事化という希望がこの戦争によって粉々に破砕されてしまったと述懐している。

 第2に,アジアでの戦争が冷戦と結びついたことである。アジア等の第三世界の紛争は必ずしもその原因からして米ソ対決と結びつくものではなかったが,この戦争が冷戦と結びついて以後,第三世界での紛争は冷戦と結びつけられて処理されることが多くなった。ことに中国は〈ソ連の衛星国〉とみなされ,台湾と中国という〈二つの中国〉問題がアジアの冷戦に組み込まれ,またインドネシアにおいても〈脱植民地化〉の戦争においてアメリカはフランスへの援助を強化していった。

(3)冷戦の制度化と変容 1953年アメリカにおいてはアイゼンハワー政権が誕生し,また同年3月ソ連ではスターリンが死去し集団指導体制に入った。アメリカはJ.F.ダレスを国務長官とし,前政権の軍事費の膨張を批判し,外交政策の力点を変化させていった。一つは〈ニュー・ルック戦略〉であり,核兵器を〈大量報復力〉と規定し,その威嚇力を前提としてアメリカの優位の上にソ連の進出を抑えようとするものであった。第2に,〈巻き返し政策roll-back policy〉といわれたようにソ連の支配下にある地域の〈解放〉を主張し,またアジアでの冷戦をも重視した。一方ソ連においては徐々に非スターリン化の路線がとられ,西側との関係改善の動きが出はじめてきた。

 一連の東西接近の動きもみられた。1954年1月のドイツ統一に関するベルリン4国外相会談,同年4~7月のフランスの敗北後のインドシナの処理を定めたジューネーブ会談,また55年2月オーストリアの中立を定めた国家条約の成立がそれである。そのなかで,とくにイギリスの要請もあって55年7月ジューネーブ4国首脳会談が開催された。ドイツ問題,軍縮問題という実質では成果がなかったものの,交渉気運の盛り上りは〈ジューネーブ精神〉として緊張緩和の雰囲気(雪どけ)をつくりだした。このジューネーブ首脳会談とヨーロッパにおけるNATO(1955年5月西ドイツの加盟)とワルシャワ条約機構(1955年5月成立)との対峙は,冷戦の様相を変質させ,主として米ソ間では核兵器に関する問題が,ヨーロッパでは統一問題をかかえた東西ドイツの問題が,また第三世界では独立・革命・内戦・戦争等の紛争が冷戦と関係づけられていく。

 まず米ソ関係では,ソ連の外交路線の転換が大きな意味をもった。1956年2月第20回ソ連共産党大会において,1955年春書記長に就任したフルシチョフはスターリン批判を行い,スターリン死後の変化の方向を決定的なものとした。国内での非スターリン化であり,東欧諸国の引締めの緩和であり(その影響として国内のスターリン派に反対する暴動が1956年ポーランド,ハンガリーで発生した),〈平和共存〉路線の確定である。すなわち,スターリン時代の戦争不可避論は否定され両体制の共存がうたわれたのである。

 この方針にもとづいてフルシチョフは積極的な外交を展開し,西側との話合いを提案するとともに核兵器の開発を進め,またそれへの依存を強めていった。1952年のアメリカの水爆実験成功の翌53年にはソ連も水爆を保有し,57年にはICBMの実験成功,ついで人口衛星(スプートニク)の打上げ成功とアメリカとの技術格差を縮めていった。このようなソ連外交に対し,アメリカ(とくにダレス)はイデオロギー的契機を重視し,またソ連が核兵器に依存する強圧的な姿勢をとったこともあって,話合いに消極的であり,ソ連の軍事技術の進展に対する不安も高まり,1950年代末には〈ミサイル・ギャップ〉論争が起こった。

 この間,ヨーロッパでは両軍事ブロックの対峙によって〈冷戦〉が制度化し,東西ドイツがその焦点となった。ことに1958年11月ソ連がベルリンの地位とドイツ統一について新提案を行って以降,ベルリン問題はヨーロッパでの〈冷戦〉の中心的地位を占め,以後の一連の会談の議題になるとともに,61年8月には〈ベルリンの壁〉の建設とともに国際危機を招いた。〈冷戦〉は第三世界にも拡大していった。ことにアメリカは第三世界のナショナリズムに理解を示すよりも〈冷戦〉を重視し(典型例はインドシナの敗北はフィリピンから日本の崩壊につながるという〈ドミノ理論〉である),〈反米〉政権の転覆(1953年イラン,54年グアテマラ),〈親米〉政権への援助(南ベトナム,韓国,台湾等),反共軍事同盟の形成(1954年SEATO(シアトー),55年米台相互援助条約,55年アメリカは参加しないもののその影響下にあったバグダアード条約)という政策を展開していった。第三世界ではアメリカとソ連の対立に加え,アメリカと中国の対立も顕著となった。そのため国際危機がしばしば発生し,そのいくつかは核戦争に導きかねない〈瀬戸際〉に世界を陥れた。1956年と58年の中国と台湾,アメリカとの間の金門・馬祖危機,1956年のスエズ危機,58年秋から冬にかけてのベルリン危機である。威嚇にしろ核兵器の使用が公然と語られた。

しかし,対話の雰囲気は継続していた。ベルリンをめぐる紛争の処理に関してジュネーブ外相会談が1959年5~8月開かれ交渉の気運が生まれ,9月には米ソ首脳会談(キャンプ・デ-ビッド会談)が開かれた。それに続いて4国首脳会談が60年5月開催されことになったが,その直前アメリカの偵察機がソ連上空で撃墜されるという事件(U2型機事件)が起こり危機が再び発生し,会談は開催されないまま幕を閉じた。その夏にはコンゴでの内乱をめぐってソ連と西側が対立した。このような対話と危機とがめまぐるしく変転したのが,60-62年の時期を特色づけた。

 1961年1月ケネディ政権の誕生後,ソ連はU2型機のパイロットを釈放し交渉のシグナルを示し,ケネディもこれに応じ,6月上旬ウィーンで米ソ首脳会談が開催された。この会談では双方とも立場を崩さず,そのため成果もなく逆に緩和を押し止めるものとなった。8月ソ連は再びベルリン問題をとりあげ,問題解決のために強硬手段に訴えた。〈ベルリンの壁〉の構築である。そしてこの危機は,米ソともに軍備拡大を宣言し,また1958年以降自主的に停止していた核実験をソ連が再開したことによっても増幅された。さらに大きな危機は翌62年キューバをめぐって発生した。カストロ政権が誕生しアメリカと対立を深めていたキューバがその舞台であった。そこへのソ連の核兵器の配備をめぐって,米ソは10月核戦争直前の状態にまで対立を深めたのである。いわゆるキューバ危機である。この危機は〈冷戦〉の大きな転換点であった。両指導者は核戦争の危機の深淵(〈(核戦争の)地獄から帰還してその地獄が地上よりよいのかどうか告げてくれたものは誰一人としていないのである〉フルシテョフ)を経験し,共存の共有(〈われわれの最も共通の鎖は,われわれは皆この地球に住んでいることである。われわれは皆同じ空気を吸っているし,子どもたちの未来をたいせつに思っている。そしてわれわれは皆いつかは死ぬのである〉ケネディ)を説かざるをえなくなったのである。この経験から,63年両国間のホットラインの設置という危機回避策の改善がなされ,部分的核実験停止条約にみられる軍備制限が実現された。

キュウーバ危機以降,先に指摘した〈冷戦〉を緩和する要因がしだいに前面に出はじめ,〈デタント〉といわれる状況をつくり出していった。しかし東アジアでは〈冷戦〉は米中対決,ベトナム戦争にみられるように1970年代まで継続していった。

 この東アジアの1960年代の〈冷戦〉は,次のような特色をもっていたといえよう。第1は,〈冷戦〉の限定化である。〈デタント〉が主としてヨーロッパを舞台として進展する一方で〈冷戦〉が東アジアで継続するという状況は,〈冷戦〉が地域的にも限定されており,また従来のような構造をとりえないことを意味した。つまり東アジアにおいて〈冷戦〉はアメリカと中国の間で展開されたのであり,まずこのことは〈極〉が多元化したことを実証するものであった。またイデオロギーの面においても,中ソ対立にみられるように共産主義は一枚岩的なものといえなくなったし,またデタントの展開は,西側でも共産主義国家一般との共存をもはや否定できないこととした。第2は,米ソ対立と異なり〈南北問題〉の軸が基本的に存在していた対立であった。ベトナム戦争は〈脱植民地化〉の過程での戦争であったし,中国の〈文化大革命〉は脱植民地化した国家においても〈発展〉が政治的大問題であることを明らかにした。したがって対立は,自由主義対共産主義という側面をもつと同時に,発展している国と植民地支配からの〈独立〉と新たな〈発展〉とを模索する国との対立という側面をももっていた。この意味で,東アジアにおける〈冷戦〉がそれ以前の〈冷戦〉とどのように異なるのかは,今後の〈冷戦〉研究の課題であるといえよう。
核戦略 →世界政治
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「冷戦」の意味・わかりやすい解説

冷戦
れいせん
Cold War

第二次世界大戦後、相対立するイデオロギーのアメリカ合衆国、ソビエト連邦の二大国が、核戦力を背景に世界的規模で対決し、ときには熱い戦争Hot Warにまで発展した国際政治上の現象。「冷戦」ということば自体は、アメリカの政治家バルークBernard Mannes Baruch(1870―1965)が演説で用いたものを、同じくアメリカの代表的な評論家リップマンが連載記事の題にして以来、常用語として定着した。「冷たい戦争」ともよばれる。

[藤村瞬一]

起源

第二次世界大戦末期から連合国のアメリカ、イギリスとソ連との間に相互不信が芽生え、1945年のドイツ降伏後、ヨーロッパの戦後処理をめぐって対立が顕在化した。西側からの冷戦の先触れとしては、1946年のイギリス首相チャーチルの「鉄のカーテン演説」、アメリカ国務長官バーンズの「シュトゥットガルト演説」などがあるが、本格的な冷戦の開始宣言は、1947年の「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」の発表であろう。とくに内戦下のギリシア、トルコへの援助を宣言した「トルーマン・ドクトリン」は米ソの対立を鮮明にした。

 またアジアでも、朝鮮半島の南北分裂国家の誕生(1948)、国共内戦後の中華人民共和国の成立(1949)など、緊張の舞台は拡大した。

[藤村瞬一]

第一次緊張

1948年のチェコスロバキアのクーデター「チェコ二月革命」による共産党の政権奪取は、西ヨーロッパ諸国に衝撃を与えた。また、この時期最大の緊張は、ドイツ占領4国のうち、アメリカ、イギリス、フランスの通貨改革に抗議したソ連による、1948~1949年のベルリン封鎖である。これに対しアメリカは、ただちに大規模な空輸作戦で対抗し、一触即発の危機を迎えた。ついでアメリカは、イギリス、フランスなど西側諸国12か国と1949年に北大西洋条約機構(NATO、ナトー)を成立させ体制を固めた。この年ドイツは東西に分裂、それぞれ米ソ二大陣営に組み込まれた。一方、ソ連側も1955年に東欧7か国とワルシャワ条約機構を設立し、ヨーロッパは二分された。

 この間、アジアでは南北に分断された朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した(1950~1953)。中国に支援された北朝鮮と、米軍を中心とする国連軍が激しい戦火を交え、双方に数十万の戦死者(一般市民を除く)を出した。

[藤村瞬一]

第一次緩和

このころアメリカの核の独占は1949年のソ連の原爆保有宣言により崩れ、それどころか水素爆弾の開発ではソ連が優位にたった。また、1953年ソ連の独裁者スターリンの死去、朝鮮戦争の休戦協定、1954年インドシナ戦争の終結を迎えて、アメリカ側に緊張緩和を受け入れる姿勢がみえてきた。1955年、久しぶりの米英仏ソ四大国首脳会談が開かれ、世界から「ジュネーブの雪解け」と歓迎された。この時期のソ連の指導者フルシチョフは、核ミサイルの対米優位を背景に平和共存を訴えつつも、ソ連外交の舞台を中東、アフリカ、中部アメリカに拡大していった。

[藤村瞬一]

第二次緊張

1961年、大統領にケネディが就任すると、アメリカはソ連に対し厳しい姿勢を示した。これに対しフルシチョフも譲らず「ベルリンの壁」を構築、続いて数十メガトン級の水爆実験を連続して行い、ソ連優位を示した。加えて1962年にキューバにミサイル基地を設けアメリカ国民を驚かせた。対するケネディは、さらにミサイルが搬入されるのを阻止するためキューバ海域を封鎖し(キューバ危機)、米ソはあわや核戦争の寸前まで至ったが、ソ連の譲歩でことなきを得た。

[藤村瞬一]

第二次緩和

キューバ危機が過ぎると、一転して米ソは歩み寄った。それは東陣営では中ソの対立が激化し、西陣営ではフランスのドゴールが独自路線をとり始めたからである。加えてアメリカは、ケネディ時代に本格的に介入したベトナム戦争(1961~1973)で民族解放戦線の抵抗に手をやき、米ソは冷戦の休戦を強いられたのである。

 1969年に西ドイツ首相に就任したブラントは「東方政策」を行い、1970年ソ連とソビエト・西ドイツ武力不行使条約、ポーランドと国境承認条約を結び、1972年東西両ドイツ基本条約を成立させるなど、もう一つの緊張緩和をもたらした。これを受け、1972年米ソ間でもニクソン、ブレジネフの間で戦略兵器制限交渉(SALT、ソルト)の合意が成立した。長い間対立していた米中両国も、同年のニクソンの訪中を機に、1979年の国交回復へとつながった。また、ヨーロッパの緊張緩和は、1975年ヘルシンキに東西35か国が集まったヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE。1995年よりヨーロッパ安全保障協力機構=OSCE)で最高潮に達した。

[藤村瞬一]

最後の緊張と終結

1981年にレーガンがアメリカ大統領に就任すると、アフガニスタンに派兵していたソ連を激しく非難、ふたたび米ソ間は険悪となった。とくにアメリカによる中距離核戦力(INF)の配備決定はソ連を刺激し、戦場となる西ヨーロッパからも反対の声が高まった。

 しかし、ソ連の実力者ブレジネフの死去(1982)後、1985年に指導者となったゴルバチョフは、国内にペレストロイカ(改革)路線を進め、対外的にはアフガニスタンからソ連軍を撤退(1988)させた。これに対しアメリカ側も態度を軟化させ、1987年中距離核戦力全廃条約に調印。さらに1989年、アメリカ大統領に就任したブッシュは、通常戦力の規制のためのヨーロッパ通常戦力条約(CFE条約)、危機回避のための信頼・安全醸成措置Confidence and Security Building Measures(CSBM)の交渉を推進するなど、軍縮の動きは急速に進展していった。同年12月マルタ島での米ソ会談でG・H・W・ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳は劇的な「冷戦終結」の共同宣言を発表、1990年ドイツ統一、1991年ソ連崩壊を経て、第二次世界大戦後45年続いた冷戦は終結した。

[藤村瞬一]

『『岩波講座 現代6 冷戦――政治的考察』(1963・岩波書店)』『D・F・フレミング著、小幡操訳『現代国際政治史――冷たい戦いとその起源』1~4巻(1966~1970・岩波書店)』『L・J・ハレー著、太田博訳『歴史としての冷戦』(1970・サイマル出版会)』『金学俊著、鎌田光登訳『朝鮮戦争』(1989・サイマル出版会)』『船橋洋一著『冷戦後』(1991・岩波書店)』『松岡完著『1961 ケネディの戦争』(1999・朝日新聞社)』『松本重治編『世界の歴史16 現代――人類の岐路』(中公文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「冷戦」の意味・わかりやすい解説

冷戦
れいせん
Cold War

第2次世界大戦後,アメリカとソ連,およびその同盟国の間で展開された公然の,しかし限定的な敵対関係。冷戦は政治的,経済的,および宣伝工作の前線で戦われ,実際に武器をもって戦う場面は限られていた。「冷戦」という言葉を初めて用いたのは,アメリカの大統領顧問であったバーナード・バルークで,1947年,議会でこの言葉を使っている。第2次世界大戦の終結が近づき,ナチス・ドイツが 45年に降伏すると,アメリカ,イギリスとソ連の同盟関係にゆるみができ始めた。ソ連は 48年までに,東欧の各国に左翼政権を成立させつつあった。アメリカとイギリスは東欧が永久にソ連の支配下におかれ,またその影響を受けた共産勢力が西欧で権力の座につくことを恐れた。一方,ソ連は今後ドイツが新たな脅威になったときのそなえとして東欧の支配を固める決意をしており,また共産主義を全世界に広げようとしていた。
冷戦はアメリカがマーシャル・プランによる復興支援を通じて各国をアメリカの影響下に置き,ソ連が東欧に公然と共産主義政権を樹立した 47年から 48年にかけて,もはや動かぬ流れとなった。冷戦は 48~53年にかけて頂点に達した。この間,ソ連は西ベルリンを封鎖 (48~49) ,アメリカと同盟国はヨーロッパにおけるソ連の脅威に対抗する北大西洋条約機構 NATOを創設 (49) ,ソ連が初めて国産核弾頭を爆発 (49) させ,アメリカの核兵器独占に終止符を打った。中国では共産党が権力を掌握 (49) し,ソ連が支援する北朝鮮の共産主義政権が 50年,アメリカが支援する韓国を侵略し,朝鮮戦争が勃発した。冷戦の緊張は 53~57年にかけていくぶん緩和されるが,それはおもにソ連の独裁者スターリンが 53年に死亡したためである。以後も東西のにらみ合いは終らず,ソ連圏に属する諸国の統一軍事組織,ワルシャワ条約機構が 55年に創設され,また同年,西ドイツの NATO加盟が認められている。
冷戦が再び緊張をはらんだのは 58~62年にかけて,米ソ双方が大陸間弾道ミサイルを開発し,62年,アメリカの都市を核攻撃できるキューバにソ連がミサイル基地を建設しはじめたことによるキューバ・ミサイル危機が発生 (62) し,両超大国は戦争の瀬戸際まで行った。この危機は,米ソ双方とも核兵器を使用する覚悟ができていないことを明らかにした。ほどなくして,両国は 63年,大気圏内・宇宙空間・水中の核兵器実験を禁止する核実験禁止条約を結んでいる。米ソ双方は冷戦期を通じて,ヨーロッパでの直接的な軍事対決を回避し,実際の戦闘行為は同盟国が相手方に寝返るのを阻止したり,かつての同盟国を転覆させる場合に限られていた。こうしてソ連はその国の共産党政権を維持するため,部隊を東ドイツ (53) ,ハンガリー (56) ,チェコスロバキア (68) ,アフガニスタン (79) に送った。アメリカもまた,グアテマラの左翼政権転覆 (54) に手をかし,キューバ侵攻 (61) を支援し,ドミニカ共和国 (65) とグレナダ (83) に侵攻し,共産主義の北ベトナムが南ベトナムを支配下におくのを阻止するためベトナム戦争を行なった。
しかし,60,70年代と進むにつれ,米ソの2極構造は国際関係におけるより複雑なパターンへと席を譲り,世界はもはや2つの明確に敵対するブロックに分けることができなくなった。主要な分裂は 60年,ソ連と中国の間で起り,両者の亀裂は年ごとに深まり,共産圏の団結を打砕いた。一方,西欧と日本は 50,60年代にダイナミックな経済成長を達成し,アメリカの優位が低下した。国力の乏しい国々も超大国の脅しにしばしば抵抗するようになった。 70年代の緊張緩和は,72年と 79年にそれぞれ第1次と第2次の戦略兵器制限条約 SALTが調印されたことに典型的に現れている。しかし,80年代初めに新たな緊張の時代が到来し,両国は大規模な軍備増強を続けるとともに,第三世界に対する影響力を競った。冷戦が終結への一歩を踏出したのは,ソ連の新指導者ゴルバチョフが政権の座についた 80年代末であった。彼は体制の全体主義的側面を取除き,政治制度の民主化に着手した。ソ連圏に属する東欧諸国の共産党政権が 89~90年にかけて崩壊したときも黙認した。また,東ドイツ,ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキアで民主政権が権力の座についてまもなく,東西ドイツが NATOの庇護のもと統一を果したが,このときもソ連は異を唱えなかった。この間,ゴルバチョフの国内改革は彼の率いる共産党を弱体化させ,権力がロシアなど旧ソ連を構成する各共和国に移行するのを許すことになった。 91年末,ソ連は崩壊し,その灰燼のなかから 15の新たな独立国家が誕生した。そのなかには,民主的に選挙された非共産党員の指導者をもつ新生ロシアも含まれていた。こうして冷戦は終った。

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百科事典マイペディア 「冷戦」の意味・わかりやすい解説

冷戦【れいせん】

cold warの訳。第2次大戦後の米ソ両国間および両国を中心とする二大勢力の対立状態。この用語は1947年―1948年ころから使われ始めた。実際の戦争手段にはよらないが,背後に核兵器をかかえた〈恐怖の均衡〉状態で,単なる国家的対立ではなく,資本主義と共産主義というイデオロギーの対立でもある。1991年のソ連邦解体により冷戦は終結したといわれる。もっとも,民族・人種対立の表面化,南北ギャップの増大,資本主義的格差の世界化など,〈ポスト冷戦〉状況がどのような展開を示すか不明確なことも事実である。→デタント
→関連項目アメリカ合衆国衛星国SDI北大西洋協力会議クライバーン国際連合国連軍シュワルナゼ信頼醸成措置ソビエト連邦第2次世界大戦鉄のカーテン東欧革命ドミノ理論トルーマントルーマン・ドクトリンNATO非同盟諸国会議封じ込め政策ベルリン問題防衛計画大綱巻き返し政策マクミランU2型機事件ヨーロッパ安全保障協力機構

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「冷戦」の解説

冷戦(れいせん)
Cold War

第二次世界大戦後のアメリカとソ連との間に生じた緊張をさす言葉で,「戦闘のない敵対」を意味する。ソ連がドイツ敗北に乗じて東欧・中欧に自国の勢力圏を拡張したのに対して,アメリカが「封じ込め政策」をとったために緊張が生じた。冷戦はその性質上,開始と終了の時期は明確ではないが,通常1946年から47年にかけて始まったとされる。緊張緩和がみられた55年,63年,また72年に冷戦は終わったという見方があったが,いずれもあとで打ち消され,80年代初頭には「新冷戦」が始まったといわれた。89年に東欧の共産党支配体制の崩壊,「ベルリンの壁」の崩壊があり,91年にはソ連自体も解体したので,それ以後は89年をもって冷戦は終結したということがふつうになった。冷戦が第二次世界大戦直後から80年代末まで続いたと考えれば,その間には緊張が和らいだ時期もあったから,冷戦時代とは,政治・経済体制とそれを支えるイデオロギーとを異にするアメリカおよび西側諸国とソ連圏との対抗関係が,国際政治の基本的性格を形成していた時代だったと定義するのが適当である。冷戦は「長い平和の時代」だったという見方もあるが,62年のキューバ危機のように米ソ戦争の危険が切迫したときもあった。アジアではアメリカは共産主義勢力の武力による拡張を防ぐために局地戦争としては大きな戦争をしており,冷戦時代のアジアはヨーロッパと状況が異なっていた。また東アジアにはヨーロッパと違い,中ソという二つの共産主義大国があり,アメリカの同盟国もまとまりがなく,それぞれ個別的にアメリカと結びついていた。冷戦の時代,ソ連は軍事力ではアメリカに対抗できたが,その他の面では遠く及ばなかった。アメリカが経済先進国として復興した西ヨーロッパ,日本との同盟を維持したのに対して,ソ連は中国とも険悪な関係になり,中国は72年に西側との関係を改善した。ソ連がゴルバチョフ時代に冷戦からの転換を志向したのも,米ソの力の格差と自国の国際的孤立のためである。

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知恵蔵 「冷戦」の解説

冷戦

米ソの対決が、軍拡競争、イデオロギー対立、諸地域の政変・内乱・ゲリラ活動などと結び付きながら進行した国際的緊張状態。現実の戦争(hot war)と対比した表現。その第一次元は、米ソ対決。両国はブロックの頂点に立ち、核兵器体系をもって対峙(たいじ)した。自己の体制の優位を確信し、相手方を国内的には抑圧的、対外的には攻撃的とみるイデオロギーを信奉。第二次元は、第2次大戦後の欧州や旧植民地地域などで頻発した、体制選択をめぐる政変や内乱。冷戦は米ソ対決と地域・国内の流動状況とが連動して激化していった点が特徴で、「国際的内戦」と形容された。まず1940年代後半に欧州で開始。50年代半ばより断続的に交渉や対話を模索する緊張緩和(デタント)が生じ、軍事的にもNATOとワルシャワ条約機構(WTO)との対峙に固定化した。ところが第三世界では、冷戦の前線が極めて流動的で、米ソの介入がしばしば危機を生んだ。その頂点はキューバ危機で、核共滅の瀬戸際を体験した米ソが平和共存に転じる契機となった。アジアでは、朝鮮戦争、ベトナム戦争を焦点に米中対立を軸に冷戦が持続。70年代に入ると米中が接近し、多中心化が進んだ。70年代後半、カンボジア、ニカラグア、エチオピア、アンゴラなどで紛争が生じ、79年のソ連のアフガニスタン侵攻前後から米ソは対立を深めた。81年、米レーガン政権は軍拡と限定核戦争論を掲げ、欧州を中距離核戦力(INF)による核の戦場と想定。この70年代末から80年代前半の米ソ対決と地域紛争を、新冷戦と呼ぶ。これは軍事対決の性格が濃く、米ソが他国のモデル国家として権威を失墜した点に特徴がある。

(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「冷戦」の解説

冷戦
れいせん
cold war

第二次世界大戦中の反ファッショ連合が解体して,米ソの対立が表面化した1947年以降の現象
武力による全面戦争を「熱い戦争」(hot war)と呼ぶのに対し,宣伝と浸透,間接的な経済的・軍事的圧迫手段による戦争をいう。アメリカの評論家W.リップマンが最初に使用。1947年3月のトルーマン宣言,6月のマーシャル‐プランの発表に対し,ソ連と東欧6カ国などはコミンフォルムを結成して,国際関係が緊張した。アメリカの対日占領政策もその中でしだいに変化していった。'90年代初めのソ連・東欧圏崩壊によって終結した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「冷戦」の解説

冷戦
れいせん

冷たい戦争

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の冷戦の言及

【アメリカ合衆国】より

…19世紀末,米西戦争を契機に世界列強となった合衆国は,第1次大戦,第2次大戦を経て超大国となり,政治,軍事,経済,文化の面で決定的な発言権をもち,〈全能のアメリカ〉が意識されるようになった。しかし,1960,70年代,内に人種紛争,外にベトナム戦争という挫折の体験を通し,さらに冷戦の終焉により,アメリカは世界の中の一国として,相対的に自己を位置づけるようになりつつある。【斎藤 眞】
【自然】
 広大な国土をもつアメリカ合衆国の自然は,きわめて多様性に富んでいる。…

【仮想敵国】より

…核兵器あるいは通常兵器に関して見られる軍備競争は,相互に相手を仮想敵国とみなす国と国が,それぞれ軍事的バランスを自国に有利なものにしようと試みることから生ずる交互的な行為である。いわゆる〈冷戦〉は,ソ連を仮想敵国とみなすアメリカと,アメリカを仮想敵国とみなすソ連との間の,戦争なき敵対関係のことを指していう。今日の多極化した世界では,仮想敵国は必ずしも単数である必要はなく,1国と数国,あるいはブロックとブロックが互いに相手を仮想敵国とみなすという関係にあることもまれではない。…

※「冷戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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