戸井村
といむら
[現在地名]亀田郡戸井町字弁才町・字泊町・字館町・字浜町・字二見町・字原木町・字丸山
近世から明治三五年(一九〇二)までの村。箱館六箇場所の一つ戸井場所であったが、寛政一二年(一八〇〇)に「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の「従松前東在」に「戸井」とみえ、持場として鎌哥・原木が記される。安政五年(一八五八)正式に村となった(書付并伺書類)。南は津軽海峡に面し、西の汐首岬から屈曲した複雑な海岸線に集落が点在する。北は気無山(四一五・一メートル)と東に隣接する笹積山(三六七メートル)が海岸に迫り、東は日浦岬で限る。
一七八〇年代には佐藤彦太夫の知行所で、「ト井ノカワシリ、産物昆布・鰤、御場所シスン・ヲカヘトマリ・ト井・ム井ノトマリ・ハラキ・カ子カシタ、産物春ハ布苔、夏昆布、秋ハ鰤・鮫、御百姓入交り昆布其外取也。夷共も抱ゐ取テ満るなり、御運上場所の名前惣名戸井の名前ニ而御判申請ル」(松前国中記)と記される。
戸井村
といむら
明治三五年(一九〇二)四月一日から昭和四三年(一九六八)まで存続した村。明治三五年亀田郡戸井村と同郡小安村が合併して二級町村制を施行。同年の戸口は七四五戸・四千九六二人。旧村名を継承する二大字を編成。同年亀田水産組合が創立され、郡内旧村区単位に水産組合が発足。同三六年戸井郵便電信局を戸井郵便局と改称。同四〇年の戸口は九〇一戸・五千五三八人。同四一年小安水産組合の村中地区と釜谷地区の昆布採取漁業海区境界紛争があり、海上で磯舟三〇〇余艘が乱闘、郡水産組合役員らの仲介により一件落着した。同四二年瀬田来の網元小柳吉太郎が汐首のナガトロに袋澗を築工、以来村内に袋澗が普及(戸井町史)。同四三年湯川(現函館市)―戸井間の道路開削工事竣工、湯川―弁才間に乗合馬車開業(尻岸内町史)。大正二年(一九一三)の戸口は一千一三戸・六千四五五人。明治三三年から昭和一〇年代まで戸井沿岸を中心とする渡島東部から内浦湾にかけて鰯が豊漁で、当村の漁場経営者は鰮長者・鰮大尽、邸宅は鰮御殿とよばれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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